都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

政治的性格 A面=都市力 B面=風土力

トランプ現象と政治的性格について論じてきた。重なる部分もあるが、整理しよう。

人間は、他の生物と同様に群をなし、社会的動物でもあり、政治的動物でもある。

人間の集団は、複層的かつ可変的である。集団の最小単位は個人であり、最大単位は人類と考えていいが、一般的に、最小単位は家族(核家族)であり、最大単位は国家であると考えてもいい。

家族と国家の間に、氏族、友人、近隣、など、また学校、企業、その他法人、自治体などの組織がある。

政治的性格のA面とは、より公共的な方向に向かう性格であり、政治的性格のB面とは、所属集団の方向に向かう性格である。

人間の都市化は、知識の拡大、管理の高度化に向かい、学者、ジャーナリストなど、知識によって仕事をする階級は、A面を支持しがちである。一方、固有の組織に属して組織のためにはたらく人々は、その組織の論理に従いがちで、B面の力をよく理解している。

A面とB面は、理論・知識に対する習慣・情緒でもあり、頭に対する胸でもあり、脳に対する心でもある。

それは、人間集団の普遍性と固有性でもあり、都市力と風土力でもある。

A面=普遍性=都市力 B面=固有性=風土力

個人にも、国家にも、二つの性格がバランスしているが、現在の世界はB面に偏りつつある。 

 

この世界の片隅に

f:id:wakashige:20161002175644j:plain

この世界の片隅に」というアニメーション映画を観た。

素晴らしい作品だ。

戦争や原爆を、庶民の目線で、人生の流れと生活の日常から現象させることによって、その理不尽を描く。それはままあることだが、この作品は、庶民目線が徹底しており、ごく普通の一人の娘の人生と生活を、周辺の人物とともに、繊細かつ情緒豊かに描いて、実にほのぼのとしてリアルなのだ。その意味では、戦争映画でも原爆映画でもない、と言えるのだが、作者の批判性は十分に伝わってくる。

前に「君の名は」も観た。面白い映画だが、評判ほどの感動はなかった。

その違いはなんだろう。

「君の名は」は特に若者に、「この世界…」は中高年にも受けているようだ。世代の違いに帰したくはないのだが、たしかにその違いが、昨今の時代を表現しているところがある。

日常の生活をきわめてリアルに描くことでは共通している。しかし「君の名は」は、大筋の設定がアンリアルで、ありえないことだ。「この世界…」は、ありえるどころか、ほぼ客観的事実である。

ありえない設定によって、人間の真実を深いところからえぐり出すのは一つの手法である。「指輪物語」や「ハリーポッター」や「ドラゴンボール」など、ファンタジーと呼ばれるものがそうだ。そういえば村上春樹の作品にもよく、ありえない設定が使われる。

若い世代は、比較的平和な社会に生きてきたので、ありえない設定の方が、緊迫した社会に入り込みやすいのだろう。これに対して高年層は、直接にではなくても、戦争や貧困の記憶が、リアルに残っている。

そして大量の情報に溢れた現代社会の潮流が、客観的事実の世界=現実と、人によって設定された世界=仮想現実との境を見えにくくしている。そのことに対する、年齢層による感受性の違いがある。

言い方を変えれば、「この世界…」の質の高さは、日常のリアルを綿密に描くことによって、空襲の現実が、あたかもファンタジーのように「ありえない」とさえ感じさせるところだ。

われわれの日常は、一見のどかであっても、過去も、現在も、未来も、常にありえない現実をはらんでいる、と言うべきであろうか。

大統領就任演説=ポピュリズムよりエゴイズム

トランプ大統領の就任演説は、よく言われるアメリカ主義なのだが、人間とか国家とかの「理念」がまったく感じられないことに少し驚いた。ここまで来ると、ポピュリズムというよりエゴイズムではないか。これでは説得力がないだろう。

 人間にも国家にも、政治的性格のA面とB面があり、どちらかに偏っているものだ。そして現在は、世界的に振り子がB面に振れている。というのが、このブログで書いてきたことだ。しかしまったくどちらかに100パーセント振れ切っているとなると、どうだろうか。振り子の糸が切れなければいいが。

ともかく、世界に共通する「トランプ現象」と、特殊な人格の「トランプ個人」とは分けて考える必要があるようだ。

 

 

建築家の資質

建築家に必要な資質は何かと問われれば「少しトンがった真心」と答える。

つくることに対する真心であり、それが世間に多少の摩擦を生じる角となる。

あまりもち合わせない有名建築家もいるし、十分にもつ無名の建築家もいる。

真心が無ければ、つくるものに意味がない。

角を立てるほどの鋭い感性が無ければ表現できないが、立てすぎると世間から排除される。

どの道も同じことだろう。

 

文科省と大学・知的腐食

文科省の組織的な天下りが問題になっている。

天下り先は大学である。

国立大学が法人化されてから、大学に対する文科省の力が驚くほど強くなった。そして教授や学部長や学長までが文科省から送られて来る。予算を獲得するために、大学もそれを受け入れる。

もともと形骸化してはいたが「大学の自治」という言葉は完全に死語となり、経営の独立によって学問の独立が失われた。

マスコミがジャーナリズムの魂を失い、大学が学問の魂を失っている。政治家と官僚の腐敗には慣れているが、社会を深部から動かす知的機関の腐食の方が深刻かもしれない。

権力の腐敗もさることながら、精神的知的腐食が国を根幹から揺るがす。

 

稀勢の里と日本社会

稀勢の里が優勝したことを日本中が喜んでいる。

本人のインタビューも涙、涙、「ホントに周りが支えてくれました、これからもホントに稽古に励んで、ホントに立派に勤めます」

周囲から精神的な弱さがあると言われ、本人もそれを認めているようだ。

若乃花以来の日本出身横綱誕生への期待からくる強いプレッシャーがあったからだろう。

本当の家族や部屋の面々や後援会だけでなく、日本全体が家族のように、暖かい声援を送り、優しく励まし見守った。相撲の世界とファンたちは、通常社会以上に日本的だ。それが日本人力士には重圧となり、逆に外国人力士には疎外感となる。

米国の球場でイチローのプレーに惜しみない拍手が送られるのを見ていると、アメリカ人の良さが出ていると思う。もちろんどの国でも、自国の選手を応援する。南米のサッカーは特に激しい。しかし日本人のような家族的情緒性とは違うように思う。

日本人の国民性の一つの特徴は、家族のような一体感であり、その一体感が、日本人選手には暖かすぎることによって、外国人選手にはどこか冷ややかなことによって、プレッシャーとなる。

「暖かくて優しい社会のプレッシャー」と言おうか。

プレッシャーにならない程度に応援したい。

 

トランプ現象とアメリカの風土=荒野

大統領就任式を控え、マス・メディアはトランプの人間性と閣僚と政策の分析に忙しい。

しかしそれは徐々に明らかになることだ。それよりもこのトランプ現象が、アメリカを二分している事実について考えたい。

グローバリズムとアメリカニズム(国家第一という意味で)である。

16世紀以来、先進社会としてのヨーロッパから見たアメリカの風土は、常に「wilderness=荒野」であった。ヨーロッパは文明すなわち都市力であり、アメリカは野生すなわち風土力という関係だ。

ところが19世紀以後、アメリカは一挙に都市化が進み。20世紀には、科学、技術、工業の面で世界トップの地位に上り詰めた。アメリカは、文明の進歩と資本主義と民主主義を象徴する国家となり、グローバリズムを推進する力の源泉となった。

しかしそれは表層においてである。

国家も人間も、その文化の基層深層は、簡単には変わらないものだ。

実はアメリカ文化には「荒野に生きる」というスピリットが、今も根強く生きている。最近のアメリカには、これまで長く都市力を演じてきたための、つまり先へ先へと進もうとするための「疲れ」のようなものが感じられた。トランプ現象は、その精神的な歪みが、反力として噴き出してきたものともとらえられる。

彼らは、再び「荒野」に戻ろうとしているのだろうか。

僕個人としては「荒野の決闘」「荒野の七人」「荒野の用心棒」といった映画が懐かしいが、そんなことを言っている場合ではないかもしれない。