都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

もう一つの事実のもう一つの事実

「事実は一つであってほしい」と、テレビのコメンテイターが強く言った。

そのとおりだ。僕も「もう一つの事実」という言葉の流行に嫌な印象を受ける。

アメリカで、トランプ大統領の報道官が、就任式に人が少なかったのを史上最大の人数として「alternative facts」と説明したことから、ジョージ・オーウェルの「1984」まで持ち出されている。好きな作家の一人だが、彼は、社会主義の理想が思想的ファシズムを形成することを先見的に風刺したのであり、トランプの方向性とは逆である。日本では言葉だけが一人歩きして「現代社会では嘘の報道もまかり通る」というような意味になってしまった。

しかしもともとこの言葉は悪い意味ばかりではないはずだ。alternativeとは「代替えの、他の」などの意味で、むしろ哲学的には正しい態度とも言える。

事実あるいは真実を、確定し記録し伝えることは難しい。どんなに客観的に記そうと努力しても、必ずその時代のその体制のその記述者の価値観が忍び込む。科学的真理にさえ「再現可能な実証」という、言わば経験的な方法論が重視される。つまり科学とは、知の絶対性を否定する認識方法なのだ。

世の中の事実が、権力によって確定され記述され報道されるなら、その絶対性を疑い「もう一つの事実」を考えてみることは必要なことである。

今ではすっかり悪い意味になってしまった。

「もう一つの事実のもう一つの事実」ということだろうか。

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首脳の親密(晋三・ドナルド)=諸刃の剣

国家の首脳同士が良好な関係というのは、双方の国民にとって、きわめていいことである。

しかしあまりにもベタベタの親密というのはどうだろう。

しかもその相手が、金ピカ趣味の、世界のメディアが批判する政治家となると。

軍事同盟は平和にとって諸刃の剣、と前に書いた。紛争の抑止にもなり、また引き金ともなる。首脳の親密も同じ諸刃の剣かもしれない。かつて、ヒトラースターリンと親密の情を示し、国民に大変な苦難を強いた海外の政治家も多かった。日本の政治家にあまりそのイメージがないのは、確固たる個人ではなく、集団の意を体して、個人としては曖昧な政治家像であったからだろう。

日本ではその曖昧さを「政治的度量」と受け止める、とも書いたが、今回はそれがために、逆に日本の政治家が世界の中で際立っているのだ。ともかくも、曖昧さが批判されるばかりであった時代とは異なってきた。

それにしても、テレビに映る安倍首相の外交現場の姿は、これまでの日本の政治家と比べて悪くない。卑屈にも尊大にも見えない。アメリカ両院議会における演説も、真珠湾訪問時における演説も、なかなか格調高かった。今回、ベタベタしていたのはむしろ大統領の方だ。

国民は多少の不安を抱えながらも、この姿に期待している。それが支持率に現れている。

最期の出会い

ある総合病院でソファに座って診断をまっているとき、車椅子に乗った相当に高齢のご婦人と目があった。向こうがニコッとしたので、こちらもニコッとした。息子さんらしい人が車椅子を押していたが、その人もすでに高齢者と言っていい。

 しばらくしてその人の方を向くと、ガクッと身体の力が抜けたように首が後ろに折れていた。息子さんが声をかけるが起きない。看護師さんがやってくる。息子さんが「よく昼寝するのですが」と言いながら、二人で声をかけたり、手をさすったりする。別の看護師さんが脈拍を図る器械をもってくる。医者がくる。そして車椅子を診察室の中に入れたので、この一団は僕の視界から消えた。

やがて息子さんの声が聞こえた。誰かに電話しているらしい。どうやらその老婦人はお亡くなりになったようだ。

だとすれば、彼女が人生の最期に出会った人間は僕だったということになる。

若いころは美人だったかなと思った。

そして、なぜそんなことを考えるのかとも思った。

 

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「家」と「やど」

東京の設計事務所から名古屋の大学に赴任して、何か新しいタイプの研究をやろうと、「文学の中の建築」というテーマに取り組み、大上段に『万葉集』から取りかかったことは前にも書いた。

万葉4500首あまりに、もっとも多く登場する建築用語は「家」であり、次が「やど」であった。「やど」といっても旅の宿を意味するのではなく、これも住むところを表している。つまり「家」と「やど」は同義語なのだ。

しかしよく調べてみると、その文脈が異なっている。「家」の歌は人を詠み、「やど」の歌は草花を詠む。例をあげよう。

「人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」

「わがやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも」

前者は大伴旅人、後者はその子、大伴家持の歌である。

ところが平安時代に成立した『古今和歌集』になると、住まいを表す言葉はすべて「やど」となり、「家」という言葉がまったく使われない。これはどうしたことか。

僕はこう考えた。和歌(万葉は和歌ではない)というものは、漢詩に対して定立された日本文化の正統であり、中国から来た文字によって成立した律令国家体制の根幹をなす「家」という社会的な概念を拒否したからではないか。つまり日本人にとって、同じ住まいであっても、「家」は社会制度の中に位置づけられた空間であり、「やど」はその制度から逸脱する風流の空間なのだ。

日本文化はこの「制度の空間」である「家」と、「逸脱の空間」である「やど」の対立構造の上にとらえられるのではないか。そして現実の建築空間と、文学の中のすなわち虚構の空間は、あざなえる縄のごとく相互に影響しあって、文化空間の歴史を構成しているのではないか。その視点から、この国の「文学・建築・社会」の関係の変遷を論じたのが『「家」と「やど」』(朝日新聞社)という著書である。

 

トランプの振子

トランプ現象と政治的性格について論じてきた。

 端的に言えば、人間の政治的性格を「A面=普遍性=都市力」と「B面=固有性=風土力」に分け、トランプ現象(トランプ個人の評価とは切り離して)をB面と位置づけた。

世界の政治力学がB面に振れているが、さて、この振子はどこまで遡ると見るべきか。

一つ目は、ベルリンの壁崩壊以後のグローバリズムである。

社会主義圏の崩壊により、世界資本主義とアメリカン・スタンダードのグローバリズムが進行しEUが形成されたが、この流れが逆に振れている。

二つ目は、第二次大戦後の国際主義である。

ドイツやイタリアや日本の民族主義ファシズムが敗退し、アメリカ主導による国際的協調が進んだが、この流れが逆に振れている。

三つ目は、17、8世紀ヨーロッパの啓蒙主義である。

ヨーロッパにおいて、科学革命と軌を一にした進歩主義と知識主義、そして教育によって国家を近代化する道が拓かれたが、これが逆に振れている。

三つとも、それなりに理屈が合うような気がする。

そしてそれは、僕がこれまでの著書で書いてきた「都市化の波=小波・中波・大波」という概念と一致する。

トランプの振子という表現が適切かどうか。まだよく分からない。

人生と地球

時にはパタパタと

時にはスイスイと

人生は過ぎていく

ふと立ち止まって

風に問う

何か意味があるのだろうか、と

人生の意味?

そんなものはない

ただ、人類とやらのせいで、最近少し地球の空気が悪くなってきた

だが、それも

宇宙の営みの中では、地球の存在など、まったく意味がない

 

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スーパーボールと大相撲

ペイトリオッツファルコンズ、驚くべき試合だった。

トム・ブレディのプレーもさることながら、エデルマンのキャッチは歴史に残るだろう。大逆転だったから「どんなに不可能と思われても諦めてはいけない」とも思わされた

特別にアメフトのファンとうわけでもないが、スーパーボールは見るようにしている。

アメリカという国の一断面が現れるからだ。

システム化された戦略と戦術、激しい闘争心、猛烈なスピードと激突、派手なパフォーマンス、資本のバックアップ、お祭り騒ぎ、など、いかにもアメリカだ。そして見たあといつも「この国とは戦いたくない」と思わされる。

ルールは少し難しい。サッカーはルールが単純なので、世界に広がったが、アメフトは「特別にアメリカ的なスポーツ」だ。日本でこれに匹敵するのは大相撲だろう。ルールは簡単だが、特異に日本的な様式性がある。柔道は世界に広がったが、相撲は「特別に日本的なスポーツ」である。

外国人力士の活躍は喜ばしいことで、もう少し国際化してもいいとは思うが、伝統の様式美は守ってもらいたい。伝統を持続することとグローバル化すること、この二つの方向性にどう折り合いをつけていくかが難しい。すべての日本文化に言えることだ。