都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

ラ・ラ・ランドの夢と挫折

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映画「ラ・ラ・ランド」を観た。

少し哀しく大いに楽しい、いい映画だった。

昔あったアメリカン・ミュージカルの夢が蘇った。フレッド・アステアジンジャー・ロジャースジョージ・チャキリスとリタ・モレノ、そしてジュリー・アンドリュース

主題歌の「シティ・オブ・スターズ」が耳に残る。しかしハリウッドという街は好きじゃない。人間の匂いがしない。あれはバーチャルな都市だ。

主演のエマ・ストーンがチャーミングだ。現代アメリカの夢を象徴している。

トランプのアメリカもあれば、エマのアメリカもあるのだ。

若者たちに言いたい。大いに夢を見ろ。そして大いに挫折しろ。

転んだら立ち上がるだけのことだ。

稀勢の里と日本社会ーその2

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稀勢の里が感動の優勝を果たした。日本中が感動した。僕も感動した。

しかしふと、モンゴル出身の力士が敵役になっていることに気がついた。

あれだけ日本を愛し、ついに帰化して日本人となったドナルド・キーン氏が、リオ・オリンピックの報道を観ていて「ファシズムを感じた」と発言したことを想い起こす。

この国は天皇を家長とする情緒的家族主義に一体化しやすい。そして国民はそのことに気づいていない。
もちろん日本人が日本人を応援するのは当たり前だが「日本人とは何か」という問題が残る。国籍もDNAもあてにならない。文化論者として僕は、日本文化を深く理解する人間(日本語を話し、日本社会に溶け込むなら、なおさら)が日本人であると考えたい。

それにしても、稀勢の里照ノ富士も、心配なのは怪我である。

場所中は気が張っているから痛みを感じないが、場所が終わったとたんに動けなくなるという。本人が出ると言っても周りが止めなければいけない。もしそこに大和魂がはたらいたとすれば、そして日本社会と相撲界がそういう雰囲気をつくっているとすれば、「戦力の不足を大和魂でおぎなえ」と言った大本営と同じであろう。

真の大和魂は、異文化に対する寛容と合理的な判断であるべきだ。

変人喚問

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目上の人に「変人ですね」と言って、えらく怒られたことがある。

僕は、褒めたつもりだったが、そうは受け取られなかったようだ。考えてみれば「変人」を尊称と考える方が変人かもしれない。僕は昔から変人に憧れているのだが、なかなかなりきれない自分をダメだなと思っている。

たしかに、周りに迷惑をかける変人は困りものだ。つまり迷惑をかけない変人が「大変人」あり、これが難しいのだ。

そういえば、前に変人と呼ばれた宰相がいた。それなりの業績を残した。

今の宰相は変人とは見えない。しかしその取り巻きには、かなり迷惑をかける変人がいるようだ。本日、証人喚問。

技術屋と財政赤字

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僕の周りには、無骨な技術屋が多く、みな経済には素人である。そしてこの国の巨額の財政赤字を心配している。

ところが金融や経済や財政の専門家の話を聞くと、どうもあまり心配しているようには思えない。

その意見には三種類ある。一つ目は、日本政府は外国ではなく日本人に借金しているのだから大丈夫だ、というもの。江戸時代の武士が商人に借金して大丈夫といっているように聞こえる。しかしこれはまだいい方だ。二つ目は、借金は返さなくてもいい、お金をジャンジャン刷ればいい、というもの。これはかなり怪しい。そうするとインフレになる、「悪貨は良貨を駆逐する」と学校で習ったような気がする。そして三つ目は、そもそも政府の借金は存在しない。すべて財務省の陰謀だ、というもの。これは議論にならない。

僕にはどうしても、金融や経済や財政の専門家より、経済には素人の、無骨な技術屋の方が信用できそうな気がするのだ。

汗水垂らして技術大国を支えてきた人々が置き去りにされ、東芝のようなことが、国家規模で起きるのは悲しい。

鎌倉=幕府街

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鎌倉を歩いてみると、この街が平城京平安京のような都ではなく、一つの砦のようなものであったことがよく分かる。

鶴岡八幡宮が位置する山地から、材木座や稲村ヶ崎という海岸に至るまでの、本宮通り、小町通りが、この街の中心軸であるが、それが海に向かって一直線というのも面白い。普通、海沿いの街は海岸に沿った道が中心軸となるのに。

鎌倉は、その山から海までの小さな土地であり、山と海で囲まれた自然の要塞なのだ。しかもその尾根が、まるで北欧のフィヨルドのように、ヒトデのような形で小さな谷地をいくつもつくって、海側からの袋小路としての居住地になっており、この谷を「やつ」と呼ぶ。さらに必要な場合は、その背後の岩壁をくり抜いて洞窟をつくることも可能だ。柔らかい凝灰岩だから掘りやすく、この石を鎌倉石といって石段などの工事に使う。

こういった海に面した「隠れ集落」のような地形は、いわゆる「東夷」が、大和朝廷によって「土蜘蛛」と呼ばれたことを彷彿とさせる。

しかしこの八幡宮から海岸までの中心軸は、現在は観光客でごった返して、むしろ極楽寺のあたりの方が風情がある。「鎌倉七口」と呼ばれる「切り通し」のひとつを歩けば、は、上からの攻撃によって敵を防ぎ、いざという時には、関東一円から武士団が集結し、京都に向かって進軍することができる。「すわ鎌倉」である。

要するにこの街は、日本の都ではなく「幕府街」であった。

 

この時代は、今の感覚では「連邦制」に近いものであったのではないか。鎌倉は幕府の地ではあったものの、文化や経済はむしろ日本各地に分散したというべきである。まさに風土力の時代である。実権を握った北条氏は、執権という言葉を使った。

またこの時代の文化が中国の宋の影響を受けたことも、風土論的に重要な意味がある。北の遊牧民に攻められ、中国の文化は、洛陽、長安という北西部の乾燥した風土から、開封、臨安など東南部の湿潤の風土に移行した。ユーラシアの西と東を結んだシルクロードをつうじた東西文化交流も陰りを見せ、唐三彩のカラフルな世界から水墨画のモノクロの世界へと変化した。

日本文化の都市化は、常に海外との関係の力学の上にあった。

 

日本の都市軸

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文字のなかった時代、日本の実態は、数々の遺跡と中国の歴史に頼るほかはない。

魏志倭人伝』に記述される卑弥呼邪馬台国は、北九州説と大和説で分かれているが、ある時点で、卑弥呼もしくはその後継勢力が、北九州から大和に移ったという説も有力であるようだ。その際、出雲王朝が重要な役割を果たしたかもしれない。

そういった問題は古代史のロマンとして百家争鳴であるが、真偽はどうあれ、僕はそのころ、この国に「北九州ー大和」という「都市軸」が形成されたものと考えたい。

瀬戸内海が経路であったようだ。吉備、周防、伊予などにも大宰府が置かれたが、やがて北九州のみが残され、外交と防衛の拠点となる。この都市軸は、大陸からのつまり西からの文明を背景にしていたのだ。大宰府は、遠方にもかかわらず第二の朝廷「遠の御門」として重視された。

以来、歴史をつうじて、日本列島の西側には都市性が蓄積され、逆に東北部にはみちのく(道の奥)という風土性が蓄積される。「西=外来文明の都市力」「東=縄文以来の風土力」というのが、東北から西南に伸びるこの列島の基本的な構図であった。ユーラシアの東端の列島という位置からも、これは当然のことだろう。

またその都市軸から外れた、南九州、山陰、南四国にも、歴史的な風土性が蓄積されてきた。

 

都市軸とは何か。

都市が人と物と情報の交流によって発展すると考えれば、それを結ぶ軸線が意味をもつのは考えられることである

現代でも、京都・大阪・神戸というのは関西の都市軸であろう。東海道メガロポリスと呼ばれる東京・名古屋・大阪も都市軸だ。ボストン・ニューヨーク・ワシントンも、ロスアンジェルス・サンフランシスコもそうだろう。ローマ・フィレンツェベネツィアは文化の都市軸であり、パリ・ロンドン。ベルリンは海を越えたヨーロッパ近代史の都市軸といえようか。地球上、経済活動のほとんどがこういった都市軸に集中しているという見方もある。

ある地域の都市力と風土力は、国家あるいは世界の中心的都市軸からの位置と距離によって決定的なものとなる。

ある時、日本の都市軸は、瀬戸内海から東海道に移動する。

都市化の歴史としては、その時点を画期とすべきであろう。

 

トランプの振子と都市化の波

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先に、トランプ現象はどこまで遡る振幅の振子と見るべきか、と書いた。

一つ目は、ベルリンの壁崩壊以後のグローバリズム

二つ目は、第二次大戦後の国際主義

三つ目は、17、8世紀ヨーロッパの啓蒙主義

それが「都市化の波」に対応すると書いた。

人類は都市化する動物であり、それは不可逆的で、加速度的であるというのが、僕の基本的な歴史観だ。

しかし、例えばフィレンツェは数百年間ほとんど変化していないが、東京はこの百年ほどかなりの速度で都市化を続けて来た。そしてこのところ一挙に都市化が進行したのが中国の諸都市である。つまり都市化には波があるのだ。

その波を500年ほどの単位の「文明史的な大波」と、50年から100年ほどの単位の「政治史的な中波」と、数10年ほどの単位の「経済循環的な小波」に分けた。世界史にとって、ギリシャ文明、ローマ文明、イスラム文明、西欧文明、近代文明などは文明史的な大波であり、戦争や革命は政治史的な中波を形成する。日本史における、律令制の成立と、南蛮文化との出会いと、明治維新は文明史的な大波であり、その他の政変は政治史的な中波を形成する。

トランプの振子も、その三つの波の振幅として、大中小それぞれのスコープで考えることができるような気がする。ほとんどの人は小波あるいは中波としてとらえているが。