文字のなかった時代、日本の実態は、数々の遺跡と中国の歴史に頼るほかはない。
『魏志倭人伝』に記述される卑弥呼の邪馬台国は、北九州説と大和説で分かれているが、ある時点で、卑弥呼もしくはその後継勢力が、北九州から大和に移ったという説も有力であるようだ。その際、出雲王朝が重要な役割を果たしたかもしれない。
そういった問題は古代史のロマンとして百家争鳴であるが、真偽はどうあれ、僕はそのころ、この国に「北九州ー大和」という「都市軸」が形成されたものと考えたい。
瀬戸内海が経路であったようだ。吉備、周防、伊予などにも大宰府が置かれたが、やがて北九州のみが残され、外交と防衛の拠点となる。この都市軸は、大陸からのつまり西からの文明を背景にしていたのだ。大宰府は、遠方にもかかわらず第二の朝廷「遠の御門」として重視された。
以来、歴史をつうじて、日本列島の西側には都市性が蓄積され、逆に東北部にはみちのく(道の奥)という風土性が蓄積される。「西=外来文明の都市力」「東=縄文以来の風土力」というのが、東北から西南に伸びるこの列島の基本的な構図であった。ユーラシアの東端の列島という位置からも、これは当然のことだろう。
またその都市軸から外れた、南九州、山陰、南四国にも、歴史的な風土性が蓄積されてきた。
都市軸とは何か。
都市が人と物と情報の交流によって発展すると考えれば、それを結ぶ軸線が意味をもつのは考えられることである
現代でも、京都・大阪・神戸というのは関西の都市軸であろう。東海道メガロポリスと呼ばれる東京・名古屋・大阪も都市軸だ。ボストン・ニューヨーク・ワシントンも、ロスアンジェルス・サンフランシスコもそうだろう。ローマ・フィレンツェ・ベネツィアは文化の都市軸であり、パリ・ロンドン。ベルリンは海を越えたヨーロッパ近代史の都市軸といえようか。地球上、経済活動のほとんどがこういった都市軸に集中しているという見方もある。
ある地域の都市力と風土力は、国家あるいは世界の中心的都市軸からの位置と距離によって決定的なものとなる。
ある時、日本の都市軸は、瀬戸内海から東海道に移動する。
都市化の歴史としては、その時点を画期とすべきであろう。