「神の左」をもつ、バンタム級王者山中慎介選手のボクシング技術は、かなりレベルの高いものだという。
しかし常軌を逸したような若者のラッシュには「神」も不発であった、と思ったが、その常軌を逸した力の源泉は、薬物のせいだという。
「薬物」は「神」をも超える魔力をもつということか。
一方、世界のテロ事件の現場では「神の名による洗脳」が、薬物同様の力を発揮している。そしてそれが「人種的偏見の洗脳」が薬物同様の力を発揮することにつながっている。
電車の中にさまざまなドラマが生まれる。
山手線、恵比寿駅から品川方面に向かう列車に乗り込んだ。ラッシュアワーの過ぎた朝はさほど混んでいるわけではない。僕は入り口近くのつり革をつかんで立った。
ドアの脇に、赤ん坊を抱えた母親が立っていた。「おー、よしよし、ヨシヒコちゃん、いいこねー」と頭巾を被せた子をあやしている。身なりのいい綺麗な女性だが、赤ん坊の母親にしては少し年がいっているように思えた。
突然、僕は電撃に打たれた。
その赤ん坊は、黒い犬のぬいぐるみだったのだ。
周りの人は気づいているのかいないのか。気づいても黙っているほかはないのだろう。彼女は品川の手前、大崎あたりで降車した。
ぬいぐるみか・・・それも黒い犬とは・・・
僕は、彼女の身の上に起きたであろう悲しいできごとを想像した。
電車の中で、一編のドラマを観たような思いだった。これまでに観たどんなドラマより印象に残っている。
人間は自分の意志によって行動する。
一般にそう思われている。
しかし僕は、無意志というものによって行動することがあるように思う。
人間には、意識と無意識があるように、意志と無意志があるのではないか。
カール・ユングは無意識(アンコンシャス)については研究したが、無意志についてはしなかった。
しかも僕の無意志はなかなか手強いのだ。
何か、バカなこと、無茶なことをやったら、それは僕の意志ではなく、僕の無意志のせいであるから、大目に見ていただきたい。
ものを書いているせいか、街を歩いているとき、電車に乗っているときに考え事をする癖がある。
電車の中で考えはじめると、決まって次の駅で降りてしまう。
ホームに降りて「あ、まだだ」と気づいて、またすぐ電車に乗る。
混んでいるときの入り口近くならともかく、そうでもないときは、とてもバツが悪い。スパイ映画で尾行をまこうとしている人のようだ。
東京の地下鉄でそういう人を見かけたら、それが私です。
8月15日も年をとると書いたが、「戦後」も年をとるような気がする。
少し年上の友人だが、彼はとても頑張って生きてきた。
食うものにも困る状況に生まれ、焼跡をうろつきながら、たくましく生き延びた。
漫画も読んだが勉強もした。
学生時代は運動部で汗を流し、熱病のような政治闘争で暴れた。
社会に出てからは猛烈に働いた。
公害問題や燃料切れと戦いながら、性能のいいものをつくった。
夜は、よく飲み歩き、カラオケで歌った。
金ができて、少し浮かれ、ゴルフ場や不動産に手を出した。
あらゆるものの暴落が起き、会社は倒産寸前に陥り、リストラが始まった。
彼は、職場を変え、さらに働き、生活を切り詰め、なんとか家族を守った。
かつての栄光が戻ることを夢見てきたが、実現することなく、高齢化した。
あてにしていた年金は、生活保護と変わらない額に減少した。
色々あったが、ともかく平和を謳歌した人生だった。
しかし最近、その平和さえも怪しくなってきた。
今、「戦後」は頭を抱えている。
男には男の賢さと愚かさがある。
女には女の賢さと愚かさがある。
少年には少年の賢さと愚かさがある。
老人には老人の賢さと愚かさがある。
上司には上司の賢さと愚かさがある。
部下には部下の賢さと愚かさがある。
難しいのは
自分の賢さと愚かさを認識することだ。