都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

帝室博物館から天皇と日本文化の本質

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ロンドンの大英博物館、パリのルーブル美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館などを訪れると、古代エジプトメソポタミアギリシャ、ローマ、中世イスラム世界などから蒐集した膨大なコレクションに圧倒される思いがする。しかし考えてみれば、それらはすべて、帝国主義時代の植民地などから略奪するようにして集めてきたものだ。この三つを「三大泥棒博物館」と呼ぶ人もいる。

またかつては蹂躙された、古代中世文明の現地、カイロ、アテネイスタンブール、北京(故宮)、西安、上海、台北(故宮)などの博物館も、今では充実して相当の宝物を陳列している。

これに比較して、帝室博物館=東京国立博物館の展示物には迫力がないのだ。ヨーロッパの宮殿が展示する、金銀の調度品や宝石の王冠も見られない。

他の王家を圧倒する長い歴史をもつ天皇家と、一時は大東亜の盟主として君臨した帝国であるにもかかわらず、その栄耀栄華を忍ばせる宝物はまったくといっていいほど存在しない。

見すぼらしいであろうか。

いや決して見すぼらしくはない。

こういった宝物の無さこそ、日本の誇るべき「帝室=天皇の家」の文化的特質である。

日本文化と天皇家の本質は、宝物にあるのでなく、むしろそれが無いことにある。宝物をもたない精神にある。日本史における天皇の立場は、他国の歴史における皇帝たちとは異なる性格のものであり、日本の帝国主義も、欧米列強のそれとは異なる性格のものであった。

もし天皇の家に財宝が満ちていたら、先の敗戦で途絶えていたろう。

本当に「帝室の美」を発見しようとするなら、むしろ桂離宮伊勢神宮に足を運ぶべきであり、日本人の心をとらえた「もの」を見ようとするなら、奈良や京都の仏閣に足を運ぶべきだ。離宮の庭に見られる「自然美の情緒」と、仏像に込めた「ものづくりの魂」こそ、日本文化の真髄である。

 

電車内劇場その2

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東京の地下鉄、前の席に座った少女が二人、話に夢中になっていた。小学校に入ったばかりぐらいの年齢だ。

「あ、しまった降り忘れた」

と一人が叫んだ。

彼女は次の駅で降りた。僕も同じ駅で降りた。乗り換え客の多い複雑な駅で、僕は戻りのホームまで連れてってあげようかと声をかけた。

「戻るんでしょう」

案の定、彼女は横を向いて僕から離れていった。

帰ったら母親に告げているだろう。

「今日、電車のホームで変なおじさんに声をかけられた」

「そう、絶対に、ついていっちゃダメよ」

彼女の行為は完全に正しい。しかし僕は声をかけたことを後悔していない。

いつのまにかそういう社会になってしまった。日日流れるテレビのニュースを視ていれば当然だろう。

どういうわけか、犯罪の少ない先進国ほど警戒的で、犯罪の多い後進国ほどフレンドリーである。犯罪の問題ではなく、個人で守る社会と仲間で守る社会の違いかもしれない。

神と薬物と洗脳

「神の左」をもつ、バンタム級王者山中慎介選手のボクシング技術は、かなりレベルの高いものだという。

しかし常軌を逸したような若者のラッシュには「神」も不発であった、と思ったが、その常軌を逸した力の源泉は、薬物のせいだという。

「薬物」は「神」をも超える魔力をもつということか。

一方、世界のテロ事件の現場では「神の名による洗脳」が、薬物同様の力を発揮している。そしてそれが「人種的偏見の洗脳」が薬物同様の力を発揮することにつながっている。

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電車内劇場

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電車の中にさまざまなドラマが生まれる。

山手線、恵比寿駅から品川方面に向かう列車に乗り込んだ。ラッシュアワーの過ぎた朝はさほど混んでいるわけではない。僕は入り口近くのつり革をつかんで立った。

ドアの脇に、赤ん坊を抱えた母親が立っていた。「おー、よしよし、ヨシヒコちゃん、いいこねー」と頭巾を被せた子をあやしている。身なりのいい綺麗な女性だが、赤ん坊の母親にしては少し年がいっているように思えた。

突然、僕は電撃に打たれた。

その赤ん坊は、黒い犬のぬいぐるみだったのだ。

周りの人は気づいているのかいないのか。気づいても黙っているほかはないのだろう。彼女は品川の手前、大崎あたりで降車した。

ぬいぐるみか・・・それも黒い犬とは・・・

僕は、彼女の身の上に起きたであろう悲しいできごとを想像した。

電車の中で、一編のドラマを観たような思いだった。これまでに観たどんなドラマより印象に残っている。