青天の霹靂であった。
体が小さいのを、気力と稽古でカバーし、普段は人格的にも申し分なく、プロはだしの絵を描いて売り上げを病気の子供にと、人間の鏡のようだった横綱の暴行事件である。
それが相撲協会のゴタゴタに絡んできそうだ。
誰もが「酒は怖い」と考える。
しかしそれだけではない。人間そのものの怖さを感じる。
批評家の小林秀雄が「死んだ人間は立派だが、生きている人間は何をしでかすか分からないから始末が悪い」という意味のことをどこかに書いていた。
「人間の霹靂」というものがあるのだ。
テレビドラマ「陸王」が面白い。
銀行員だった池井戸潤の原作ドラマは、「半沢直樹」など、リアリティとドラマ性が合体しているが、特に日本社会の「ものづくり職人」に焦点を当てている。
彼が銀行員だった時代に、魂を持った「ものづくり職人」を十分に援助できなかったことが背景にあるのだろう。本来銀行は、将来性のある人と技術と企業に資金を提供するものだが、バブル時代は担保となる不動産に金を貸した。
最近、あるイタリア人と話していて、日本のものづくりは、すべてがハイテク化したために、ローテクの職人技術が崩壊したのではないかと感じた。イタリアにはまだ手仕事の職人技術が残っているが、それは日本のように先進工業技術が他国を圧倒する時期を経ていないからのようだ。
そしてそのハイテク技術も、団塊の世代が退職することによって、十分に機能しなくなっている。現在、日本を訪れる外国人が感心するのも、江戸時代からの古い技術にである。
ひょっとすると、世界を席巻したハイテク技術そのものが、底辺の薄いバブル的な現象だったということになりかねない。
テレビで「シン・ゴジラ」の放送があった。
映画館で観たときほどではないが、なかなか迫力があり、反響も大きかったようだ。この映画のポイントは、単なる怪獣ハザードではなく、非常時における日本政治の決断できない状況とアメリカの関与が鋭く描かれていることだ。
僕は昨年の9月、この映画の感想をこのブログに、「1・崩壊のリアリティ、2・アメリカとの関係、3・福島との関係」と、3回に分けて書いた。
そのすぐ後、某大新聞に政治学者御厨貴さんの論文が出た。内容は似ていたが、時間的にもパクリはありえない。むしろ政治学的にも、そういう評価になるのだということを確認した。
米大統領がトランプになってから、またそのアジア歴訪のあと、この映画を観ると新たな感慨がある。
日本の周囲には「たくさんのシン・ゴジラがいる」ような気がするのだ。
トランプ米大統領に対する、日本、韓国、中国の対応ぶりはそれぞれであった。
安倍首相は、他国にはない親密ぶりを示し、日米同盟が堅固であることをアピールした。
文在寅大統領は、北に対する対話の立場と反日の姿勢を示し、微妙なスタンスを取った。
習近平首席は、かつての皇帝の居城に案内し、二大国のリーダーとして対等のイメージを発信した。
「親密・微妙・対等」
それぞれの対応は、北朝鮮、ロシアも含めた六カ国における、東アジアの情勢が複雑な状況に置かれていることを示している。
冷戦時代のような単純なブロック対立の関係ではなく、それぞれの立場における「多角的複合」の関係である。
日本は、この複雑微妙な「多角的複合」にうまく対処できるであろうか。
保守か革新か、右か左か、上からか下からか、といった単純な構図の政治感覚では対応できないと思われる。戦国時代の群雄割拠と明治維新の思想転換を生き抜いたような、柔軟強靭な政治感覚を陶冶する必要がある。
昨晩テレビで「ショーシャンクの空に」を観た。
何度見てもいい映画だ。
ストーリーはよくある脱獄劇だが、副主人公モーガン・フリーマンのナレーションがいい。言葉が哲学的でかつ詩的なのだ。
印象的なシーンは、年老いた受刑者が50年ぶりに釈放されて街で働きはじめ、自分の居場所がないこと感じて首を吊る場面である。
主人公の脱獄成功と所長の悪事がばれるのは快感だが、この映画のポイントは、刑務所の内部社会と一般社会との対比であり、刑務所社会に慣れた人間にとって一般社会が住みにくいということである。
「刑務所の高い壁を、最初は憎む。やがて慣れる。そしていつのまにか依存するようになるんだ」
このセリフがこの映画の精神を端的に表現する。
結局、主人公と副主人公はメキシコへ逃げてハッピーエンド。アメリカの犯罪映画にはそういうエンドが結構ある。アメリカという監視社会にとってメキシコが隠れて生きる別世界なのだが、僕は思った。
トランプの壁が建設されたら、アメリカ人はメキシコへ逃亡できなくなって、息苦しさを感じるのではないか。経済的に困るのはメキシコ人かもしれないが、精神的に困るのはアメリカ人かもしれない。
パレスティナにも壁、EUにも社会的な壁、もちろん日本にも壁はある。人間集団は、常にある種の「壁」と、そこを抜ける「通路」を必要としているのかもしれない。
トランプ大統領は「日本は武士の国」という発言を何度かしたようだ。
これに対して、あるテレビ局の人が「ほとんどは農民だったのだから、日本は武士の国じゃない」と批判した。
日本の武士は、単なる軍人ではない。上は貴族に近く、下は農民に近い、日本独特の階級である。よく戦う者であると同時に、よく学ぶ者でもあり、軍事だけではなく、文書階級つまり官僚でもあった。そういった独特の階級が日本史の中核をなし、日本文化の中核をなしているのだから「日本は武士の国」という発言は間違いではないと思われる。