都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

芸能人はリアルなキャラクター

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昔の芸能人は、歌、演奏、踊り、役を演じるなど、なんらかの芸能に秀でていて、客を唸らせた。銀幕のスター女優といえば絶世の美女の代名詞だった。

今のバラエティ番組やクイズ番組に出る芸能人はそうではないようだ。

特に芸があるわけでもなく、知識がある人もいれば、驚くほどない人もいる。美女やイケメンもいれば、かなりそうでもない人もいる。

とはいえ、誰にでもできるかというと、一般の人にはなかなか難しい。それなりの存在感が必要なのだ。

テレビのスタジオには、一つの小さな社会が成立していて、それぞれのキャラクターを演じている(天然も交え)。視聴者はそこに親近感を感じ、自分を投影して、社会参加する。もちろん責任を負う必要はないのだから疑似的な参加である。

前に論じた「個室の大衆」(THE・PAGE)にとって、テレビの芸能人は、キャラクターがリアルになったような存在なのだ。

 

炎と怒り・響きと怒り

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トランプ政権の暴露本『炎と怒り』が話題になっている。

原題は『Fire and Fury』、トランプ大統領北朝鮮に対して発した言葉で、もとは聖書だともいう。しかし筆者(若山)はウィリアム・フォークナーの小説『The Sound and the Fury』(邦題『響きと怒り』)を思い起こした。これは一押しの文学作品だ。アメリカ文化の風土的な奥深さが理解できる。

アメリカ南部の農園を舞台として、主人公が交代しながら連続する「家の物語」(文学的には「サーガ」と呼ばれる)である。しかし「絆」の物語ではない。その家は崩壊の過程にあり、家族は孤独な存在だ。そこには、北部と南部の分断、工業資本と農園経済の分断、黒人と白人の分断、家にすがりつこうとする者と出ていこうとする者の分断が、哀愁をもって描かれている。

アメリカ合衆国において、北部と南部の軋轢はまだ続いている。オバマからトランプへの大統領移行は、南部の白人至上主義者を勢いづけ、南北戦争リベンジの様相を呈しているのだ。

そう考えれば、『炎と怒り』『響きと怒り』、二つの本のタイトルの類似には大きな意味がある。トランプを勝たせたのは、このアメリカの深部に満ちている「怒り」、特に南部の北部に対するそれ、であったのかもしれない。

ちなみに「sound and fury」は、シェイクスピアの『マクベス』の中の一節で、激しい葛藤と後悔のセリフでもある。

人生

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今日まで生きてきた。明日からも生きていくだろう。

吉田拓郎の歌詞のようだが、悔いがないということはない。自分らしくとか、オレ流とかでもない。まあそれなりにということ。感謝して生きろといわれるが、恨み、辛み、怒り、嫉妬、そんなものも十分にある。総じて、申し訳ない。

しかしこれまでの人生はどこに行ったのだろう。探しても見つからないような気がする。記録とか、記憶とかはあるが、そんなものは当てにならない。

本当に存在したのだろうか。過去はすでに存在しないから過去なのだし、未来はまだ存在しないから未来なのであって・・・

 

政治的オリンピック

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平昌オリンピックも政治的になってきた。

かつて中国のピンポン外交が話題になったが、スポーツも政治に翻弄されるのだ。ベルリン五輪が、ナチスドイツの宣伝に使われたこと、モスクワ五輪に、日本が参加できなかったこと、などが思い出される。

それにしても韓国はこのところ激しく揺れ動いている。

一時は、テレビやスマホの産業で世界トップに立ち、先進国に仲間入りしたとされたのだが、この政治的揺れは、朝鮮半島地政学的な不安定からきているのだろう。第二次大戦後、東アジアの不安定(火種)は、朝鮮半島からインドシナ半島に移り、再び朝鮮半島に戻ったかのようだ。西のバルカン半島に似ている。

日本の舵取りは「きわめて微妙である」というほかはない。