都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

「刑事モース」の終わり方

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先回、「今やっている『刑事モース』」と書いたが、筆者はドラマをビデオにとって見る習慣があり、このドラマは少し前に最終回を迎えていた。これは謝らなければならない。

問題はその終わり方である。

主人公とその上司は、稀に見る正義感をもつ腕のいい刑事だが、最終回で、上司は悪党に撃たれて(死んだように見える)、主人公は嵌められて収監される場面で終わる。

勧善懲悪とはまったくの逆で、作者の心には、根深い社会(体制・権力)批判とニヒリズムがあるように感じる。

日本の視聴者はこういうエンディングに慣れていないので、筆者にも衝撃であった。

おそらくヨーロッパの視聴者もアメリカの視聴者も慣れていないだろう。映画は、テレビドラマより深刻度が高いが、アメリカ映画はほとんど場合、正義の主人公が勝つし、フランス映画やイタリア映画では主人公の不幸も多いが、まあ納得できる理由があってのことで、こんな終わり方はまずない。

イギリスの視聴者が、こういう結末に慣れているとすれば、それはそれで興味深い。ドラマや映画は、その国の社会心理を反映するものだ。

EU離脱もその文脈で読めるかもしれない。

ミステリー番組・イギリスと日本

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「名探偵ポアロ」「刑事フォイル」そして今やっている「刑事モース」。

イギリスのミステリー番組は見応えがある。

ストーリーにリアリティが感じられるのは、現実にありそうだ、ということより、人間と社会を、深く掘り下げているからだろう。

時代設定がしっかりしていて、イギリスの当時の社会状況がよく描かれている。都市と建築もしっかり考証されている。特に「名探偵ポアロ」に登場する建築は、古い様式も、モダニズムも、みごとにデザインされていることにおどろく。

それに比べて、日本のミステリー番組はリアリティがない。最後はお決まりの水辺かビルの屋上で、説明的な長ゼリフと安っぽい人情の押しつけだ。登場する建築も、まったくいい加減なセットである。

そこへいくと、松本清張横溝正史は、時代が変わっても不思議に実感がある。

つくる方も力が入るのだろう。清張ものは特にテレビ朝日がいい(よかった)ようだ。

原作の力は大きい。

冤罪の弁護士についての番組

NHKで、冤罪を主に扱い、むずかしい裁判で無罪を勝ち取ってきた弁護士、今村核についての番組の再放送があった。

見応えがあった。

なぜかといえば彼に、正義感の押しつけも、自分へのヒロイズムも、まったく感じられなかったからだ。時には、番組をつくる側の意図に反してまで、そういった「作意」を拒否し、つくる側もそれを受け入れた。昨今、医者や、政治家や、教育者や、弁護士などに、魂をもった人物が減っていることを感じていたが、こんな人物もいるのだ、と重く受け止めた。

つくる側が作意を押しつけるとき、番組は生命を失う。

つくる側が対象に学ぼうとするとき、名作が生まれる。

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南北会談とノーベル賞

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拈華微笑


金正恩委員長にうながされて文在寅大統領が38度線を越えるシーンは印象的であった。

つい先日まで、やれミサイルだ、核実験だ、近親者暗殺だ、側近の粛清だと、恐怖政治の象徴だった人間が、一転ニコニコ顔でやってきたのだから、世界も日本も、戸惑うのは当然だ。

二つの反応がある。要注意だが平和ムードと非核化への前進は歓迎(どちらかといえば左派革新系)というのと、これまでどおりでまったく信用できない(どちらかといえば右派保守系)というものだ。

どちらも一理あるし、矛盾もある。非核化が客観的に確認されなければ無意味であるというのが政治的リアリズムであるが、ムードとはいえ平和への兆候は歓迎すべきである(どちらも一理)。また、この会談を評価するなら、軍事的経済的圧力をかけたトランプ大統領と安倍首相も評価しなくてはならないし、逆に、非核化を目的としてきたのだから、それを前提とする対話を初めから否定すべきではない(どちらも矛盾)。

日本が蚊帳の外に置かれることを心配する向きもあったが、今回は蚊帳の中に蚊がいるような気がするし、強そうな人たちが殴り合いしそうなところへ割り込む必要もない。

拉致問題解決はいい続けるべきだ。もちろんその補償も。

本丸は、本当の非核化である。その実現のためには、妙な面子にこだわらず、たとえ弱い力でも、推しつづける必要がある。

ところで最近、トランプ大統領の集会でノーベル賞の大きなシュプレッヒコールが起きたのも印象的であった。

それなら安倍首相にも小さなコールが起きていいのだろうか。

グレートレース・報酬も賞賛もない命がけの挑戦

グレートレースという番組がある。

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酷寒の北極圏、酷暑の砂漠、険しい山、深い森、激しい川、厳しい自然の中を数百キロ、数日間、命がけで走り抜く。自転車も、カヌーもあれば、時にはパラグライダーも登場する。参加者の多くは途中脱落し、ゴールにたどり着く者は少ない。

レースであるから、主催者がそれなりのサポートをして救急医療体制もあるようだが、体力と生命の極限に挑むことはたしかだ。しかもプロスポーツのような報酬もなく、リンドバーグのような賞賛もない。逆に数十万円の参加費を負担しなければならず、目的はただ完走とその達成感なのだ。

かつては、地球上に未知の世界が大きく広がっていて、子供達はその探検と冒険にあこがれ、成功した探検家はそれなりの報酬と賞賛をえた。もっと前は、宝探しの海賊や征服者(コンキスタドール)が跋扈した。

現在は世界の津々浦々にランドサットの目が光り、宇宙と深海の他に「未知」というものがなくなっている。そこで、自然への「挑戦」が組織的にセッティングされはじめた。いわば「探検冒険のゲーム化」であろう。

参加者の年齢は意外に高く、つまりこの挑戦にそれまでの人生が掛かっているのだ。番組としては、参加者の人生観にもう少し食い込めばおもしろいと思うが、やりすぎるとわざとらしくなる。

「なぜ好きこのんで苦しむのか」「もっと有益なことに挑戦しろ」という声もあるが、僕は参加者にエールをおくりたい。

人間とは挑戦するものだ。

ビートたけし・軍団・森社長の文化論

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オフィス北野の内紛が報じられた。

芸能界に詳しいわけではないが、よくあるタレントと事務所の問題とは一味違うような気がした。たけしと軍団は一体で、森社長が敵という構図だが、僕は文化論的に三つどもえだと思う。

たけしという人が、多くの分野で図抜けた才能をもつのは確かだろう。それが、マネージャー(プロダクション・事務所)に支えられるというのは普通のことだが、そこに「軍団」という要素が入ると問題は簡単ではない。ただのタレント集団なら事務所に所属するのだが、軍団となるとたけしに所属するようにも聞こえる。かといってクレイジーキャッツドリフターズのようなグループタレントでもない。

そもそも、たけしという人は、親分肌で侠客風なところがある。浅草のストリップ劇場からテレビに舞台を移したが、浅草の匂いを捨てきれない。いろいろ事件も起こす。それが、何事も法律、契約、管理と、合理主義一辺倒の今の社会に、ひとつの「異」となって、彼の芸風をつくっていた。

軍団と事務所と三つどもえの関係の中で、その「異」をどこまでつらぬけるか。文化論的も興味深いところだ。

軍団といえば、世界では田中軍団、ボスが図抜けた力をもつ独特の親分子分関係であった。