都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

お盆と終戦・御巣鷹山と「はるな」

8月は、戦争を想う、鎮魂の季節だ。

それにしても終戦記念日の8月15日が、死者の魂を迎える「お盆」という、古くからの日本文化(仏教からくる)と重なるのは不思議な一致だとかねがね思っていた。この時期には、意識として確かに、戦争犠牲者の霊が帰ってくるのだ。

そしてこの10日、防災ヘリコプターの「はるな」が群馬県の山中で姿を消した。群馬県の飛行機事故といえば、誰もがあの御巣鷹山日航ジャンボ機墜落を想い起こすだろうが、それが33年前の8月12日なのだ。山中に散らばるヘリの機体を見て、その記憶がよみがえった。

僕は、あまり神秘的な考えにおちいらない、どちらかといえば科学的合理的な方だが、死者の魂(霊)が呼んでいるのではないか、というような気がしたものだ。

この異常な暑さのせいかもしれない。

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霊場の夏

 

厳正と抜擢=公平倫理、その崩壊=存亡の危機

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考える人は孤独だ


東京医大の入試で、女子学生が一律に減点されていたというのは驚きであった。

そしてテレビによく出る女医が「医療の現実から見れば当たり前」と発言したようだ。女医が増え過ぎて男性の医者が減るのは医療の現場に好ましくないという、現実を知った発言として、そういう見方もあるのかと思わされた。

しかし問題なのは、これが贈収賄を含む「裏口入学」と並行して行われていたことである。入試の公平性という原則がまったく等閑視されたことである。

実は、入試と人事における「公平倫理」がこの国の根幹である。

敗戦によって、国家に対する忠誠、目上の者に対する尊敬、その他多くの倫理道徳が消失する中で、実力本位の公平倫理だけは何とか保たれ、復興と成長の原動力となってきた。

公平倫理は、破ることによって他人に直接的な害悪を及ぼす感覚が薄く、時に人情と衝突するので、これを守るには、それなりの個人的倫理観が必要なのだ。

入試においては、たとえ点数主義と言われてもそれを遵守する「厳正」が公平の原点である。最近の文科省は入試を多様化しろというが、結果として情実が入り込む契機を増やしている。また教員も多様化しろというが、実は質を落とすことにつながる。

逆に、さまざまな要素が絡む実社会の企業人事では、型どおりではない思い切った「抜擢」が必要だ。それには上司に、事なかれ主義とは異なる腹の据わった公平倫理が要求される。

厳正と抜擢という「公平倫理」の崩壊は、単なる悪ではなく、長期的にこの国の底力を損なう、いわば国家存亡の危機である。

「実力ボス」から「小悪ボス」へ

ボクシング協会やレスリング連盟やアメフト部といったアマチュアスポーツ界に、かなり悪質なボスがはびこっていたことが明るみに出た。

いずれも激しい身体コンタクトのある競技で、強い精神力が必要とされ、上下関係に厳しく、個人の権利より規律に対する忠誠が優先される。そこに前近代的なボスが生まれる下地があったのだろう。

一時代前、田中角栄、真藤恒、島桂次江副浩正堤義明といったその世界の大物ボスが次々と訴追された。

確かにそれなりの不法あるいは不当な事件が発覚したからである。しかし彼らは、戦後の復興から成長へ、全力を傾注して日本社会を牽引してきた人物である。彼らがいなかったら日本がここまでになっていたかどうか。意思と実力があまりにも強かったために、つい良識の枠を踏み破ったという感がある。実際、彼らが追放されたあと、日本社会は小物ばかりが要職につき、国力そのものが低下してしまった。「角を矯めて牛を殺す」という格言を実感したものだ。

しかし今話題になっているのは、そういった「実力ボス」ではなく、単なる「小悪ボス」である。

そして考えてみたいのは、「実力ボス」がいなくなって、他人の顔色をうかがう「忖度人間」ばかりになったために、こういった「小悪ボス」がはびこったのではないか、という仮定である。

人間社会の水は、綺麗すぎても汚すぎても、魚が棲みにくくなる。

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智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。

 

唖然とする公的組織のボス

唖然とするニュースというのが、時々ある。

ボクシング連盟の会長だ。何か驚くべきことをしたというより、その人間像だ。

アメフトの監督の違反タックル指示もそれに近い。

レスリングの監督のパワハラは少し近い。アマチュアスポーツは本来、クリーンさが信条である。プロスポーツは金が絡む。しかし金が絡むからこそ、その勝敗に厳しく、運営の原則も厳しくなるのかもしれない。

何々協会という公的組織は、官僚組織と同様、利益を上げる必要がない組織だからこそクリーンであるべきなのだが、逆に、役員の選任が曖昧になり、党派的な政治力が働いて、力の強いボスが生まれ、様々な忖度が働いて、不合理な権力がはびこることになる。

時代劇の悪代官や、西部劇の町の顔役、暗黒街の親分などに、そんな唖然とする人物を見ることがよくあった。どんな組織にも「刷新」というものが必要なのだろう。

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燃えている

 

女子減点、かつての工学部では考えられない

僕が学んでいたころの工業大学では、女子学生はいないのが当たり前。稀にいても学年に一人か二人、500分の1ぐらいの確率だったから、教室の建物には女子トイレがない。彼女たちは女子事務員のいる本館まで、そうとうの距離を歩かなければならなかった。今だったらたちまちクレームがつくだろうが、そのころは彼女たちも大学側も仕方ないと思っていたようだ。

僕が教えていたころの工業大学では、女子学生がどんどん増えていった。それでも少ないので、入試のとき、合否の線引きをする(順序を入れ替えることはないが、合格者が他大学の医学部などへ流れる可能性を考えて、定員より多少多めに取る)のだが、ギリギリの線上に女子学生がいるとそこまでは取るというのが暗黙の了解であった。工学部では女子学生が貴重だったのだ。

しかし今では、工学部にも女子が増え、2、3割はいるだろうか。しかも成績は上位だから、医学部に近づいてきたともいえる。しかし初めから減点するというのはあり得ない。大学入試の公平性は、戦後日本を支えてきた原則である。

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考えられない

 

リガのユーゲント・シュティール 映画監督エイゼンシュテイン の父親は建築家

バルト三国は、言葉も風土も文化も異なるところが面白い。

端的にいえばエストニアフィンランドに近く、リトアニアポーランドに近い。

一番ロシアの影響が残るのがラトビアで、首都リガはソビエト時代モスクワに次ぐ大都市であった。

世界遺産中央市場や中心街もいいが、住宅地の一角に、ロシアの映画監督セルゲイ・エイゼンシュタインの父親、ミハエル(建築家)の設計によるユーゲント・シュティールの作品が並んでいるのは見ものだ。

ドイツのアール・ヌーヴォーとされるが、むしろ様式主義とゼツェッシオンの中間の感覚だ。ユダヤ系ロシア人ミハエルの作品は少し過剰だが、天才セルゲイを生んだ片鱗を感じる。またその後のロシア・アヴァンギャルドドイツ表現主義に通ずるものも感じる。ドイツとロシアの敵対的影響関係は、オーストリアポーランドチェコフィンランドなども含めて、20世紀初期のモダニズムに、東欧圏の革命的先鋭が大きな役割を果たしたことを想わせる。

 

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巨額の買い物

イージス・アショアが6000億円だという。

長く建築をやってきたので、巨額のコストにはそれなりの感覚があるのだが、一般の人にはピンとこない数字だろう。これはべらぼうな額である。

そりゃないでしょ、トランプさん、安倍さん、防衛省さん!

自衛官もびっくりではないか。

防衛のためか、外交のためか、貿易摩擦のためか、よく分からないが、国民感情を表現すべきではないだろうか。

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