都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

大衆とは何かー大衆発信社会・その2

「市民」という言葉は、都市民から来ており、教育され文明化されたという意味を帯びている。ヨーロッパでは、市民革命のあと、貴族に代わって権力を握った都市商工業者すなわちブルジョアジーの意味でもある。日本では政治家によってご都合的に使われ、リベラル(自由)という言葉も、同様に曖昧である。

「人民」あるいは民衆という言葉は、そのような選別性のない庶民に近い意味で、国家や資本主義に搾取される人間として、マルクス主義社会主義の政治主体として使われてきた。

だがいずれも民主主義に寄り添う言葉で、これまでの政治は、市民を主体とする自由主義(共和制)的な民主と、人民を主体とする社会主義的な民主との拮抗であったと言える。自民党にも民進党にも「民」がつく。

しかし「大衆」という言葉は、そのような政治性から切り離された概念だ。

生身の人間の、頭頂から足先まで、精神と肉体、意志と欲望、理念と現実のすべてを含み込んだ意味として、政治勢力からはむしろ忌避されてきた。

僕は、編集者のいないインターネットでは、大衆こそが発信の主体となるのではと考えた。そしてこういった社会においては、これまでの民主主義とは異なる政治力学が誕生するのではないかとも考えている。

僕たちは今、自分も大衆の一員であることを自覚し、膨大な大衆発信の一部として発信し、なお、怒涛のような大衆の暴走に冷静な批判力を保つことを求められているような気がする。

オルテガ・イ・ガゼットは『大衆の反逆』において、理念なき専門家を含めた大衆の野蛮を批判した。1929年の著作だ。

今なら「大衆の圧倒」と言うべきか。