トランプやプーチンやドゥテルテといった指導者の傾向を、右派、ポピュリズムといった一言で表現するのを避け、とりあえず価値判断を控えて、これを政治的性格のB面とした。
今、ひとつ僕の頭の中にあるのは「体育会系」という言葉である。
高度成長のあと、日本人の生活が豊かになるにつれて、大学の部活動にスポーツを楽しむことを趣旨とする「同好会」というものが登場した。「体育会系」とは、これに対する旧来の本格的な運動部を称したもので、根性を据えて命がけの練習に明け暮れるのが普通、そこには、封建的な、不合理な、時代遅れな、軍国主義的な、精神主義的なといったマイナスのイメージも含まれている。
70年前後の学生運動を総括して、そこには体育会系の学生が参加していなかったという歴然たる事実がある。日常イヤというほど運動している学生にとって、今さら「運動」する必要はなかったというわけだ。
つまり体育会系は、左翼的な政治運動とは縁遠い存在であった。
とはいえ右翼というわけでもない。
実は僕もそうだったので、よく理解できるのだが、学生生活のほとんどすべてをかけて厳しい練習をするのが、国のためか、大学のためか、というとそうでもないのだ。かと言って、自分のためでもない。チームのため、伝統と友情のために闘うのである。公に認められた大義のためにではなく、自分が所属する集団の精神的紐帯のために闘う、という意識が強い。
精神主義的傾向はあるが、闘いの作戦と技術に関してはきわめて現実主義である。革命や改革という言葉に酔った左翼の学生が角材を振り回したり火炎瓶を投げたりすることの危険さをよく知っていた。
つまり体育会系の人間は、公共より集団であり、理想より現実であり、進歩より伝統であり、自由より規律であり、一見戦闘的であるが、危険回避能力もある。
政治的性格のB面は「体育会系」の側面をもつように思われる。