都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

トランプ現象はポピュリズムか

欧米でも日本でも、既成のマスメディアは、トランプ氏の勝利と、ヨーロッパの右翼政党の伸長を「ポピュリズム」と位置づけているようだ。

しかし現代のマスコミが、民主主義社会の選挙結果に対してこの言葉を使うことには違和感がある。どうもそのまま素直には受け取れないのだ。

たしかにこれまでの歴史を見ても、極端な国家主義民族主義が、国民的熱狂としてのポピュリズムと結びついていた感は否めない。しかしそれは左翼陣営にも、つまり社会主義にも見られたことだ。ある社会が、大きな変革を迎えようとするときは、そういった熱狂が現れるものであり、僕が考えるポピュリズムはこれと少しズレている。

ポピュリズムとは、人気取りであり、大衆迎合である。それはむしろ現在のマスコミそのものについて言えることではないか。

もともと普通選挙と大衆消費の社会では、政治家は大衆の人気を必要とし、企業は大衆の購買意欲に支えられ、マスメディアは視聴率や販売部数の点からも大衆に迎合する。そしてその大衆はマスメディアの意見に左右される傾向を否定できない。

政治家とジャーナリストが確固たる信念をもち、大衆がそれを評価する力をもっていた時代には、民主主義が何とか支えられていたが、現代(ベルリンの壁が崩壊し、思想的対立による冷戦構造が終結してから)の先進国では、政治家もマスメディアも信念を失い、表面的な平和と平等の理想を唱えるばかりで、言葉に力がない。だから人々はそれを信頼できず、魅力も感じないでいる。つまり民主主義が衆愚政治に堕しているのだ。

さすがにマスメディアは「衆愚」という言葉を控えているが、ポピュリズムとはそのことであり、従来は、貴族主義的な立場の側から、民主主義的な現象を批判する言葉であった。オルテガの『大衆の反逆』はその代表だ。

現代のマスコミは、自らを知識人=貴族と位置づけ、選挙結果を大衆の衆愚的行動と位置づけようとしているのだろうか。そうだとすれば、それはむしろ自らに拳を振り上げることになるような気がする。