先のブログで、トランプやプーチンといった政治家(すなわちB面の)を「体育会系」という言葉で表現した。
現在、特定の人気スポーツ(例えばプロになって稼げるような)を除けば、体育会系は下火である。
友人たちが集まって話をすると、それぞれの部活動の衰退ぶりに「近頃の日本の男は根性がない」ということになるのだが、よく考えてみると、あれだけの苦しい練習に何の代償もなく打ち込んだことの方が不思議で「むしろ俺たちの方が頭がおかしかったのじゃないか」と言って大笑いする。確かに、あまり合理性はなかったのだ。
つまりスポ根マンガの流行も含めて「体育会系」は時代的な現象であったのかもしれない。1945年に終了した第二次世界大戦と1970年前後の学生運動とのあいだの、先進国に共通する現象だったのではないか。学生運動が下火になるとともに、体育会系も下火になった。そう考えれば「若者の運動エネルギー」という物理現象として解釈できるような気もする。
しかしスポーツ全体が下火というわけではない。むしろ逆にプロ・スポーツは大変な活況を呈し、商業主義化している。
本来、アマチュア・スポーツに打ち込むのは、克己心であり、チーム精神であり、報償を求めない崇高な行為なのだ。もともとイギリスの貴族の鍛錬から出発しているものが多い。
プーチンは柔道に打ち込んだのはいいがマッチョぶりを自慢しすぎる。つまり政治利用している。不動産王のトランプは、もともとそんな無償の努力を評価するタイプとも思えない。
考えてみれば、体育会系の人間は、そんな政治家よりはるかに立派ではないか。