先に、AIに関する論評が、打ち壊し運動とアシモフの時代の域を出ていないと書いた。
乱数発生と自己学習が生み出す、これまでのプログラムとの違いの本質に触れていないからだ。
乱数発生は、プログラムに偶然を取り込むことであり、これは創造力と想像力につながる。自己学習は、それぞれの体験によってプログラムが変化することで、生物個体の成長と同様である。どちらもきわめて生物的であり、人間にプログラムされたままではないということだ。コンピューターは乱数発生と自己学習によって、人間の手を離れようとしているのである。
そしてそのことによって、囲碁のソフトは一段と強くなり、しかも人間と同じようなミスを犯すようになった。
つまり「強さ」とは、決して理詰めで物事を解決することではなく、偶然に身を委ね、そこから新しい状況と戦略を生み出していく力であり、経験によってそれまでの自分を否定していく力であり、時にはミスを犯すことも許容する覚悟なのだ。
人間も「絶対にミスを犯さないように」と考えた途端にプレッシャーを感じて硬くなり失敗することは、スポーツを見ているとよく分かる。
強くなった囲碁ソフトと対戦していると、相手が可愛くなる。
物足りないのは、感情の表現がないことだ。
負けたときには「参りました、くやしい、ワー残念、このやろう」とか
勝ったときには「ワー勝った、どうだ、見たことか、これが実力じゃ」とか
そういう発言をするようになったら、AKBよりAIの方がずっとカワイイ。