その共通点から、日本社会の「公の論理」と「家の論理」の葛藤を論じた。
https://thepage.jp/detail/20171204-00000003-wordleaf
戦後日本は、絶対平和主義であり、暴力と体罰は絶対否定である。
しかし暴力とは何だろうか。
筆者は子供のころ、とっくみあいの喧嘩が日常茶飯事だった。中学のとき、担任の先生から体が吹っ飛ぶほど強い平手打ちを食らったことがあるが、今その先生をもっとも尊敬している。また大学では、かなり激しい運動部に属していて、試合や練習に手を抜くと体罰として基礎体力運動が追加されるのだが、殴られる方がはるかに楽だと思っていた。しかしその先輩、同輩、後輩の絆は現在でも強い。肉体的にはもっとも苦しいが、精神的にはもっとも楽しい、人生における貴重な青春のひとときだった。
もちろん暴力は許されるべきではない。
しかし荒れた学園での教育現場、若い運動エネルギーの発露において、絶対平和、絶対非暴力では抑えられない現実がある。つまり暴力にも、その性質と程度によっては是認せざるをえないケースがあるのだ。
もちろん暴力は許されるべきではない。
一方で、イジメ、自殺、過労死などの報道、昨今の某女性元国会議員、地方議員などの実態を知ると、この平和であるはずの社会に、言葉の暴力、精神的な暴力が蔓延していることを感じざるをえない。何の得にもならない嫉妬からくる犯罪も多い。心ないマスコミの報道が人間の精神と名誉を損なう場合も少なくない。なぜこんなイヤな国になってしまったのか。
もちろん暴力は許されるべきではない。
しかしこれを機会に、肉体的のみならず、精神的なものも含めて、「暴力とは何か」ということを、改めて考え直してみることは許されるのではないか。