ボクシング協会やレスリング連盟やアメフト部といったアマチュアスポーツ界に、かなり悪質なボスがはびこっていたことが明るみに出た。
いずれも激しい身体コンタクトのある競技で、強い精神力が必要とされ、上下関係に厳しく、個人の権利より規律に対する忠誠が優先される。そこに前近代的なボスが生まれる下地があったのだろう。
一時代前、田中角栄、真藤恒、島桂次、江副浩正、堤義明といったその世界の大物ボスが次々と訴追された。
確かにそれなりの不法あるいは不当な事件が発覚したからである。しかし彼らは、戦後の復興から成長へ、全力を傾注して日本社会を牽引してきた人物である。彼らがいなかったら日本がここまでになっていたかどうか。意思と実力があまりにも強かったために、つい良識の枠を踏み破ったという感がある。実際、彼らが追放されたあと、日本社会は小物ばかりが要職につき、国力そのものが低下してしまった。「角を矯めて牛を殺す」という格言を実感したものだ。
しかし今話題になっているのは、そういった「実力ボス」ではなく、単なる「小悪ボス」である。
そして考えてみたいのは、「実力ボス」がいなくなって、他人の顔色をうかがう「忖度人間」ばかりになったために、こういった「小悪ボス」がはびこったのではないか、という仮定である。
人間社会の水は、綺麗すぎても汚すぎても、魚が棲みにくくなる。