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都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

変人喚問

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目上の人に「変人ですね」と言って、えらく怒られたことがある。

僕は、褒めたつもりだったが、そうは受け取られなかったようだ。考えてみれば「変人」を尊称と考える方が変人かもしれない。僕は昔から変人に憧れているのだが、なかなかなりきれない自分をダメだなと思っている。

たしかに、周りに迷惑をかける変人は困りものだ。つまり迷惑をかけない変人が「大変人」あり、これが難しいのだ。

そういえば、前に変人と呼ばれた宰相がいた。それなりの業績を残した。

今の宰相は変人とは見えない。しかしその取り巻きには、かなり迷惑をかける変人がいるようだ。本日、証人喚問。

技術屋と財政赤字

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僕の周りには、無骨な技術屋が多く、みな経済には素人である。そしてこの国の巨額の財政赤字を心配している。

ところが金融や経済や財政の専門家の話を聞くと、どうもあまり心配しているようには思えない。

その意見には三種類ある。一つ目は、日本政府は外国ではなく日本人に借金しているのだから大丈夫だ、というもの。江戸時代の武士が商人に借金して大丈夫といっているように聞こえる。しかしこれはまだいい方だ。二つ目は、借金は返さなくてもいい、お金をジャンジャン刷ればいい、というもの。これはかなり怪しい。そうするとインフレになる、「悪貨は良貨を駆逐する」と学校で習ったような気がする。そして三つ目は、そもそも政府の借金は存在しない。すべて財務省の陰謀だ、というもの。これは議論にならない。

僕にはどうしても、金融や経済や財政の専門家より、経済には素人の、無骨な技術屋の方が信用できそうな気がするのだ。

汗水垂らして技術大国を支えてきた人々が置き去りにされ、東芝のようなことが、国家規模で起きるのは悲しい。

鎌倉=幕府街

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鎌倉を歩いてみると、この街が平城京平安京のような都ではなく、一つの砦のようなものであったことがよく分かる。

鶴岡八幡宮が位置する山地から、材木座や稲村ヶ崎という海岸に至るまでの、本宮通り、小町通りが、この街の中心軸であるが、それが海に向かって一直線というのも面白い。普通、海沿いの街は海岸に沿った道が中心軸となるのに。

鎌倉は、その山から海までの小さな土地であり、山と海で囲まれた自然の要塞なのだ。しかもその尾根が、まるで北欧のフィヨルドのように、ヒトデのような形で小さな谷地をいくつもつくって、海側からの袋小路としての居住地になっており、この谷を「やつ」と呼ぶ。さらに必要な場合は、その背後の岩壁をくり抜いて洞窟をつくることも可能だ。柔らかい凝灰岩だから掘りやすく、この石を鎌倉石といって石段などの工事に使う。

こういった海に面した「隠れ集落」のような地形は、いわゆる「東夷」が、大和朝廷によって「土蜘蛛」と呼ばれたことを彷彿とさせる。

しかしこの八幡宮から海岸までの中心軸は、現在は観光客でごった返して、むしろ極楽寺のあたりの方が風情がある。「鎌倉七口」と呼ばれる「切り通し」のひとつを歩けば、は、上からの攻撃によって敵を防ぎ、いざという時には、関東一円から武士団が集結し、京都に向かって進軍することができる。「すわ鎌倉」である。

要するにこの街は、日本の都ではなく「幕府街」であった。

 

この時代は、今の感覚では「連邦制」に近いものであったのではないか。鎌倉は幕府の地ではあったものの、文化や経済はむしろ日本各地に分散したというべきである。まさに風土力の時代である。実権を握った北条氏は、執権という言葉を使った。

またこの時代の文化が中国の宋の影響を受けたことも、風土論的に重要な意味がある。北の遊牧民に攻められ、中国の文化は、洛陽、長安という北西部の乾燥した風土から、開封、臨安など東南部の湿潤の風土に移行した。ユーラシアの西と東を結んだシルクロードをつうじた東西文化交流も陰りを見せ、唐三彩のカラフルな世界から水墨画のモノクロの世界へと変化した。

日本文化の都市化は、常に海外との関係の力学の上にあった。

 

日本の都市軸

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文字のなかった時代、日本の実態は、数々の遺跡と中国の歴史に頼るほかはない。

魏志倭人伝』に記述される卑弥呼邪馬台国は、北九州説と大和説で分かれているが、ある時点で、卑弥呼もしくはその後継勢力が、北九州から大和に移ったという説も有力であるようだ。その際、出雲王朝が重要な役割を果たしたかもしれない。

そういった問題は古代史のロマンとして百家争鳴であるが、真偽はどうあれ、僕はそのころ、この国に「北九州ー大和」という「都市軸」が形成されたものと考えたい。

瀬戸内海が経路であったようだ。吉備、周防、伊予などにも大宰府が置かれたが、やがて北九州のみが残され、外交と防衛の拠点となる。この都市軸は、大陸からのつまり西からの文明を背景にしていたのだ。大宰府は、遠方にもかかわらず第二の朝廷「遠の御門」として重視された。

以来、歴史をつうじて、日本列島の西側には都市性が蓄積され、逆に東北部にはみちのく(道の奥)という風土性が蓄積される。「西=外来文明の都市力」「東=縄文以来の風土力」というのが、東北から西南に伸びるこの列島の基本的な構図であった。ユーラシアの東端の列島という位置からも、これは当然のことだろう。

またその都市軸から外れた、南九州、山陰、南四国にも、歴史的な風土性が蓄積されてきた。

 

都市軸とは何か。

都市が人と物と情報の交流によって発展すると考えれば、それを結ぶ軸線が意味をもつのは考えられることである

現代でも、京都・大阪・神戸というのは関西の都市軸であろう。東海道メガロポリスと呼ばれる東京・名古屋・大阪も都市軸だ。ボストン・ニューヨーク・ワシントンも、ロスアンジェルス・サンフランシスコもそうだろう。ローマ・フィレンツェベネツィアは文化の都市軸であり、パリ・ロンドン。ベルリンは海を越えたヨーロッパ近代史の都市軸といえようか。地球上、経済活動のほとんどがこういった都市軸に集中しているという見方もある。

ある地域の都市力と風土力は、国家あるいは世界の中心的都市軸からの位置と距離によって決定的なものとなる。

ある時、日本の都市軸は、瀬戸内海から東海道に移動する。

都市化の歴史としては、その時点を画期とすべきであろう。

 

トランプの振子と都市化の波

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先に、トランプ現象はどこまで遡る振幅の振子と見るべきか、と書いた。

一つ目は、ベルリンの壁崩壊以後のグローバリズム

二つ目は、第二次大戦後の国際主義

三つ目は、17、8世紀ヨーロッパの啓蒙主義

それが「都市化の波」に対応すると書いた。

人類は都市化する動物であり、それは不可逆的で、加速度的であるというのが、僕の基本的な歴史観だ。

しかし、例えばフィレンツェは数百年間ほとんど変化していないが、東京はこの百年ほどかなりの速度で都市化を続けて来た。そしてこのところ一挙に都市化が進行したのが中国の諸都市である。つまり都市化には波があるのだ。

その波を500年ほどの単位の「文明史的な大波」と、50年から100年ほどの単位の「政治史的な中波」と、数10年ほどの単位の「経済循環的な小波」に分けた。世界史にとって、ギリシャ文明、ローマ文明、イスラム文明、西欧文明、近代文明などは文明史的な大波であり、戦争や革命は政治史的な中波を形成する。日本史における、律令制の成立と、南蛮文化との出会いと、明治維新は文明史的な大波であり、その他の政変は政治史的な中波を形成する。

トランプの振子も、その三つの波の振幅として、大中小それぞれのスコープで考えることができるような気がする。ほとんどの人は小波あるいは中波としてとらえているが。

小池石原劇場

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小池百合子石原慎太郎。「竜虎相搏つ」という感じになって来た。

政治家同士の対決と言えば、これまで吉田茂鳩山一郎田中角栄福田赳夫安倍晋太郎竹下登など、自民党の領袖たち、いわば政治のプロどうしの対決であり、永田町の数の論理で決着がついて来た。政治は力、力は数、数は金、というやつだ。

そこへ殴り込みをかけたのが石原慎太郎だ。大変な票を集め、一気に人気政治家となった。そのあと雨後の筍のごとく、タレント議員が輩出した。彼らは既成の永田町の論理に対して、一般国民の人気の論理で戦った。善戦した者もいたが、苦戦した者もいた。そういった中で、石原と小池は、永田町の論理をある程度身につけて、それなりの実力を蓄えた。

とはいえ、今回の激突は、人気を背景にしている。「昔の人気・vs・今の人気」ということか。となれば世代の対決にもなる。国民にとって重要な、安全保障や経済政策や行財政改革やといったテーマからは離れた、かなり過去のゴシップ的な関心で、一種のポピュリズムだろうか。まさに劇場型の政治現象だ。実際に彼らは、映画やテレビの世界で生きて来たから劇場には慣れている。

もちろん今の人気は昔の人気より強い。しかし昔の人気は長期にわたり、文学や弟の存在などの背景もある。文化論的にも興味深い。

東芝・日本技術帝国の崩壊

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数寄屋橋ソニービルが解体され、しばらくは公園になるという。

向かいには昨年オープンした東急プラザ。阪急が入っていたが、もとは東芝の松田ビルであった。

東芝は明治初期以来の、重電を中心とする大企業であり、ソニーは戦後急成長した、主としてオーディオ・ヴィジュアルの家電企業であり、どちらも日本のものづくり技術の象徴であった。そしてどちらも経営悪化。ソニーはまだ可能性があるが、東芝はどうだろう。数寄屋橋から、二つのビルが消え去るのは象徴的だ。

70年代、80年代、トヨタ、ホンダ、ソニーパナソニックニコン、キャノン、セイコー、シャープ、カシオ、富士フィルム東芝、日立、三菱、その他・・・。日本のものづくり技術は世界に群を抜いていた。僕はこれを「日本技術圧勝時代」と書いたことがある。同世代の技術屋は、その栄光のために汗水垂らして働き、今はほぼリタイヤしている。

かつて、日本の軍人は大日本帝国の崩壊を目の当たりにして生きざるを得なかったが、今、日本の技術屋は日本技術帝国の崩壊を目の当たりにして生きざるを得ない。

もちろん責任者の罪は重い。