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都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

「シン・ゴジラ」と日本社会・その3−福島との関係

 

映画「シン・ゴジラ」は、東日本大震災に触れていない。

しかしこの映画に、3・11の地震による津波被害と福島原発が、大いに関わっていることを感じないわけにはいかない。むしろゴジラを使って、3・11を映画化したとさえ言える。

初期のゴジラ呑川を登るシーンは、あの津波をイメージさせた。そして次第に放射能レベルが上がる恐怖は、福島第一が電源を喪失して注水が不可能になったときの恐怖に似ていた。

そして不測の事態に対する「中枢の無能と現場の有能」もまったく同様である。

福島第一の危機において、日本政府の責任者、東電本社の幹部、経産省の担当官、安全委員会の大学教授たちは、まったく頼りにならなかった。それに対して、事故後現場に残った東電および関連企業の現場担当者たち、自衛隊と消防隊の現場担当者たちは、身を挺して最悪の事態を避けようと努力した。文字どおり身命を捧げたのだ。

僕はもっと前者を批判し後者を称賛すべきではないかと考えていたので、その点でもこの映画は意義があると思う。

ゴジラという不測の事態に対して、権威ある立場の専門家たちはまったく役に立たない。しかし社会的立場も低い、少し変人だが、実力ある専門家たちが集められ、その叡智の結集によって事態は解決に向かう。ポンプ車で凝固剤を注入するシーンは、福島第一に水を注入するシーンを思い浮かばせた。

立場を超えた若い指導者たちの決断力と、自衛隊の活躍ぶりは目立っていたが、これは映画の「つくり」でもあろう。

それにしても「中枢の無能と現場の有能」は、日本社会の著しい特徴ではないか。

先の戦争も、関東軍という現場の暴走と、若い兵士たちのテロとクーデターが、主たる原因というのが、戦後知識人の総括である。ドイツでは「悪いのはナチ」とされるように、日本では「悪いのは軍部」とされる。しかし僕は、日本のエリート層とマスコミの責任も大きいと考える。あの戦争も3・11と同様「中枢の無能」が主たる原因ではなかったか。

映画を見終わって、そんなことを考えていた。