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都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

鎌倉=幕府街

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鎌倉を歩いてみると、この街が平城京平安京のような都ではなく、一つの砦のようなものであったことがよく分かる。

鶴岡八幡宮が位置する山地から、材木座や稲村ヶ崎という海岸に至るまでの、本宮通り、小町通りが、この街の中心軸であるが、それが海に向かって一直線というのも面白い。普通、海沿いの街は海岸に沿った道が中心軸となるのに。

鎌倉は、その山から海までの小さな土地であり、山と海で囲まれた自然の要塞なのだ。しかもその尾根が、まるで北欧のフィヨルドのように、ヒトデのような形で小さな谷地をいくつもつくって、海側からの袋小路としての居住地になっており、この谷を「やつ」と呼ぶ。さらに必要な場合は、その背後の岩壁をくり抜いて洞窟をつくることも可能だ。柔らかい凝灰岩だから掘りやすく、この石を鎌倉石といって石段などの工事に使う。

こういった海に面した「隠れ集落」のような地形は、いわゆる「東夷」が、大和朝廷によって「土蜘蛛」と呼ばれたことを彷彿とさせる。

しかしこの八幡宮から海岸までの中心軸は、現在は観光客でごった返して、むしろ極楽寺のあたりの方が風情がある。「鎌倉七口」と呼ばれる「切り通し」のひとつを歩けば、は、上からの攻撃によって敵を防ぎ、いざという時には、関東一円から武士団が集結し、京都に向かって進軍することができる。「すわ鎌倉」である。

要するにこの街は、日本の都ではなく「幕府街」であった。

 

この時代は、今の感覚では「連邦制」に近いものであったのではないか。鎌倉は幕府の地ではあったものの、文化や経済はむしろ日本各地に分散したというべきである。まさに風土力の時代である。実権を握った北条氏は、執権という言葉を使った。

またこの時代の文化が中国の宋の影響を受けたことも、風土論的に重要な意味がある。北の遊牧民に攻められ、中国の文化は、洛陽、長安という北西部の乾燥した風土から、開封、臨安など東南部の湿潤の風土に移行した。ユーラシアの西と東を結んだシルクロードをつうじた東西文化交流も陰りを見せ、唐三彩のカラフルな世界から水墨画のモノクロの世界へと変化した。

日本文化の都市化は、常に海外との関係の力学の上にあった。