都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

人生と地球

時にはパタパタと

時にはスイスイと

人生は過ぎていく

ふと立ち止まって

風に問う

何か意味があるのだろうか、と

人生の意味?

そんなものはない

ただ、人類とやらのせいで、最近少し地球の空気が悪くなってきた

だが、それも

宇宙の営みの中では、地球の存在など、まったく意味がない

 

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スーパーボールと大相撲

ペイトリオッツファルコンズ、驚くべき試合だった。

トム・ブレディのプレーもさることながら、エデルマンのキャッチは歴史に残るだろう。大逆転だったから「どんなに不可能と思われても諦めてはいけない」とも思わされた

特別にアメフトのファンとうわけでもないが、スーパーボールは見るようにしている。

アメリカという国の一断面が現れるからだ。

システム化された戦略と戦術、激しい闘争心、猛烈なスピードと激突、派手なパフォーマンス、資本のバックアップ、お祭り騒ぎ、など、いかにもアメリカだ。そして見たあといつも「この国とは戦いたくない」と思わされる。

ルールは少し難しい。サッカーはルールが単純なので、世界に広がったが、アメフトは「特別にアメリカ的なスポーツ」だ。日本でこれに匹敵するのは大相撲だろう。ルールは簡単だが、特異に日本的な様式性がある。柔道は世界に広がったが、相撲は「特別に日本的なスポーツ」である。

外国人力士の活躍は喜ばしいことで、もう少し国際化してもいいとは思うが、伝統の様式美は守ってもらいたい。伝統を持続することとグローバル化すること、この二つの方向性にどう折り合いをつけていくかが難しい。すべての日本文化に言えることだ。

米軍経費負担

相当の額だとは思っていたが、85パーセントまでとは思わなかった。

これがモデルというのなら、他の国はたまったものではない。

政府はこれまでつまびらかにしなかったのではないか。そして野党もマスコミもまったく批判しない。これまで許していたことが後ろめたいのだろうか。テレビ番組の司会者が、アメリカがさらなる要求をしてくることに不安を示すのが情けない。さすがに専門家の答えはしっかりしていたが、ジャーナリストの魂は何処へやら。少し反対があった方が、安倍首相も交渉しやすかろうに。

独立国として胸を張るには程遠い。

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マティス国防長官の頼もしさ

獰猛いや勇猛で知られる海兵隊出身。湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争と、激戦地を戦い抜き、失った部下の家族をすべて訪問し、圧倒的な信頼と人望がある。膨大な戦史と哲学の本を読み、深い知識がある。日本にも勤務し、同盟国である日本の国旗が紛失したのを、徹底的に探させて、数日後に見つかったという。

マティス国防長官は、軍人らしいハッキリした発言で、尖閣は安保の範囲であり、同盟国への攻撃を許さない、と言い切った。

日本人は頼もしさを感じたのではないだろうか。

考えてみれば、今の日本社会には、こういった人物像が見当たらない。はるかに遡って、東郷平八郎山本権兵衛大山巌児玉源太郎山本五十六、といった名前が浮かぶ。つまり戦前は頼もしき軍人がいた社会であり、戦後はいなくなった社会である。

所属集団の任務に忠実で、強靭な精神と肉体と知識と知恵を有し、やるべきこととやるべきでないことを峻別し、やるべきことは断固としてやる。今の日本では、軍人に限らず、そういう人物像が理想とされていないような気がする。

誤解してもらいたくない。軍人を賞賛しているのではない。

これまで書いてきたように、その社会がもつ「政治的性格」について言いたいのだ。

 

坊ちゃんと不良・日米首脳会談

あるテレビ番組(日曜日の朝のフジテレビ)で「安倍首相はお坊ちゃんだが、不良と付き合うのがうまい」という発言があった。

なかなか巧みな表現だ。

たしかに安倍総理は、祖父も総理大臣、父も総理候補の政治家、妻は大企業のお嬢さんという、お坊ちゃんである。

一方、トランプ、プーチン、ドゥテルテなどは、国益と信じることのためなら、そうとうのこともやる強面で、不良という言葉は(そう悪い意味ではないという前提で)かなり近いイメージだ。

われわれは「柔よく剛を制す」安倍首相に期待せざるをえないのだが、外務省の作戦は、当面、安保や貿易の問題衝突を避け、ゴルフでもして「ロンヤス関係」のような信頼関係を築くということのようだ。

しかしながら、そのツーショットが、世界のトランプ反対潮流において、日本という国の反動的、特に人種と宗教に対する偏見の印象につながるのではないかという心配もあるようだ。真っ先に会談したイギリスのメイ首相さえも、特定国の入国拒否を厳しく批判した。

日本人は、こういった人種と宗教の問題に不慣れであり鈍感である。意見の違いを棚に上げて握手することを「政治的度量」ととらえるが、世界は逆に「思想的立場」を鮮明にすることを政治家の条件ととらえる。

戦後日本の外交は、アメリカ追随と平和主義のあいだで揺れ動いてきた。「同盟」というものは、平和にとって諸刃の剣である。戦争の抑止力にもなれば、加担力にもなる。これまでのアメリカは常に国際合意の側にあろうとしたが、そこから外れるとなれば、日米同盟もかつての三国同盟のような様相を呈するのだ。とはいえ現在の時点で、アメリカとの関係が悪くなることは避けなければならないだろう。

そう考えると、この会談は、結構重要な意味をもつ。

「ゴルフで仲良し」というだけの問題ではなさそうだ。

 

野生社会と管理社会

小池百合子ブームの前は田中角栄ブームであった。

これとトランプ現象との関連はあるだろうか。もちろん彼が大統領になる前だが、先進社会が豪腕のリーダーを求める傾向とは関連があるだろう。

トランプ、プーチンサルコジベルルスコーニといった面々は、マスメディアと良識派知識人の顰蹙もなんのその、強引に自説と政策を押し通す。日本でこれに対抗できそうな人格の政治家は、故人ではあるが田中角栄ぐらいだったかもしれない。

日本では、田中逮捕以来、政界から大物が消えたばかりでなく、小佐野賢治、真藤恒、江副浩正島桂次堤義明といった大物財界人も、何らかの追及を受け、多くは失脚した。こういった野生味のある大物に共通するのは、強烈な意志力と決断力と行動力である。そして時に犯罪スレスレと多彩な女性関係。そういう野生味のある人物が活躍する社会を「野生社会」と呼んでみよう。

つまり日本は、政界も財界もあるいはマスコミも、この数十年で一挙に、野生的な大物から管理された小物の社会すなわち「管理社会」に転換したのだ。そして同時に、国力が著しく低下した。

誤解しないで欲しい。僕は「野生社会の方が管理社会よりいい」と言うのではない。

ここで言いたいことは、野生社会から管理社会への転換が、極めて短期間であるということ、そしてそれが国力低下と同調しているということである。

そしてもう一つ。どこの国でも国民は、マスメディアと良識派知識人がどう言おうと、野生味のある強いリーダーを求める部分があるということだ。

これまでの論調と合わせれば、野生社会=政治的B面=風土力・vs・管理社会=政治的A面=都市力、ということである。

 

ラスコーの空間秩序

ラスコーの洞窟壁画の展示を見に行った。

細長い洞窟の中に、馬、鹿、牛など、身近な動物たちがダイナミックなパノラマとなって展開される。もちろん写真のような写実性ではなく、ある特徴を誇張する筆法だが、生き生きとした動きをとらえる描写力に感心せざるを得ない。

しかし僕の興味を引いたのは、牛などの足元に描かれた、格子状の模様である。

都市と建築の根源的な歴史を考えてきた者に、地面に描かれた直角格子は重要な意味を投げかける。人間にとって、平面上の格子は、都市や建築における空間秩序のもっとも基本的な形であるからだ。数学的にも、直角座標は平面上の位置を示すもっとも有効な方法である。

考古学的には、意味が特定されていないようだが、そこに描かれた動物たちが、すべて人間にとって危険な種ではなく、比較的おとなしい、家畜的な種であることからも、もちろん遊牧や放牧以前の、狩猟採集の社会ではあるが、何らかの、場所や、領域や、所有や、所属や、といった意味をもつ、空間的な秩序の記号性を感じるのだ。

都市や建築の最古の遺跡が現れるのは、ずっと後世のことだ。

しかしここに、ホモ・サピエンスの歴程における、それに近い空間概念の萌芽を示す象徴が見られるのではないだろうか。

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