都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

周縁の文化・日本建築の良さを教えたチェコ人

 

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コンドルは日本人に洋風建築を教えたが、その後、帝国ホテルを設計するライトの助手として来日し、そのまま日本に住んで、モダニズムと和風の融合を教えたのがアントニン・レーモンドだ。

チェコ出身、ボヘミアンだ。この言葉はヨーロッパの長い歴史の中で、単にチェコ人の意味を超えて「故国を喪失した流浪の人(特に芸術家)」を意味する。

僕は二度プラハを訪れているが「百塔の都」と呼ばれる美しい街である。あの『変身』を書いたカフカの地で、建築には、アルフォンソ・ミュシャの描いたアール・ヌーボーのデザインがよく残っている。

周囲は深い森の風土であり、文化的には、西欧と東欧の境界線、ローマン・カトリック圏とギリシャ正教圏の境界線、ゲルマン系とスラブ系の境界線にあることを感じた。中世には・ヤン・フスの教えが広がり、異端とされ火刑に処せられたが、市の中央広場にはいまだにその銅像が置かれ、市民の尊敬を集めている。いわばプロテスタント起源の地だ。

文明の中心に対する「周縁の文化」であろう。

レーモンドが日本での設計において、ライトの影響を抜け出して独特の味を出したのは「木の扱い方」である。特に、比較的細い丸太の扱いで、構造力学的には洋風、意匠的には「和風」である。そしてここで「和風」というのは、あの千利休が大成した草庵茶室すなわち数奇屋の感覚である。

草庵茶室は、壁がちであること、躙り口、茶碗の美意識などは半島の民家の系統に近く、丸太の扱い、網代天井などは東南アジアの系統に近い。つまり、中国や日本の仏教建築や邸宅建築の本格的様式から外れた、東アジア木造文化圏の「周縁の様式」であるというのが筆者の持論である。

レーモンドがもつ周縁文化の血がそこに共鳴したのではないか。

 
「THE・PAGE」に詳しく書きました。若山

安倍首相の代理戦争

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前川前文科省事務次官の会見と、それにまつわる官僚、元官僚の話を聞いていると、官僚組織の内部に、安倍派と反安倍派がいて、激しい葛藤を演じていることが感じられる。

これはマスコミにもあるようで、単に朝日VS読売といったことでなく、それぞれの記者に安倍派と反安倍派がいるようで、こちらの葛藤もかなり激しい。

これまで、政争というものは永田町現象であり、霞が関の官僚や大手マスコミは一歩引いたところにいたのだが、今は巻き込まれている。

かつての米ソ冷戦構造のように、政界(米ソ)そのものは安倍一強の無風状態だが、官界とマスコミに代理戦争が起きているのだ。どうもこの政権には、かつての「資本主義vs社会主義」のような思想信条の違いといった性格があって、それが日本社会の隅々にまで広がっているような気がする。

 

BSと高齢者

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どうもテレビは、地上波よりBSの方がレベルが高いようだ。

テレビ局の知人に聞いたら「そのとおりだ」という。それでも視聴率は地上波の方がはるかに高くて、BSを見るのは大体が高齢者だともいう。つまり年寄りの方が、知的レベルが高いのだろうか。

年とともに、体力も知力も衰えていることを実感しているのだが、そうでもないのかもしれない。確かに若い人の方が、現代社会に生きる知恵を磨いているし、特にIT系の技術に関してはスキルが高いが、深いところの知の積み重ねとなると、とても怪しい。「知」より「情報」が重視されている。

特に僕が感じるのは、大学、マスコミなど、本来知的であるべき職業のレベル低下である。大量のデータ処理をコンピューターに任せて、あるいは扇情的雷同的世論に乗って、物事を理論的に考えようとしなくなっている。

トランプ現象もその象徴的兆候かもしれない。

 

教育は無償であるべきか

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安倍首相は憲法改正に高等教育の無償化を盛り込もうといしているようだが、これはどうだろうか。九条が大きな問題でありすぎて、あまり語られていないし、野党も反対はしにくい。

僕は経験から、学生には随分と個人差があって、学問に向いている学生と、あまり向いていない学生がいることを感じている。

今の教育者は、誰もが努力によって一流になれるというようなことをいうが、誰でもがボルツのように早く走れたり、イチローのような名選手になれるわけではない。学問も同じことだ。むしろ早めに自分の適性を見極めて、専門学校に行くなり、就職するなりした方がいい。重要なのは、人それぞれの道を行くことであって、無理やり同じレールに乗せて競争させることではない。

もちろん学問に向いている学生には門を開くべきだ。かつての国立大学は、ほとんど個人負担がなく、それが国家発展の原動力になったことはたしかである。

しかし卒業免状と異性交遊だけを目当てにしているような学生のコストを、親が払うならまだしも、国民全体が支払うというのは、「一見公平の不公平」というものではないか。

ご意見をお寄せください。

 

地から湧き出るスポーツ

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テレビで、壁を登るボルダリングというスポーツを見た。

それなりに面白い。

最近は、スケボーやスノボー、曲乗りの自転車やスキーなど、曲芸に近いスポーツが流行っている。

新しいスポーツが、大地から湧き出るように登場する時代なのだ。

古典的なスポーツといえば、陸上が王者で、水泳が副だろう。レスリングやボクシングなどの格闘技もあり、冬季ならスキー、スケートなど。狩猟時代からあったような基本的な身体力を競う。

近代的なスポーツは、サッカー、ラグビー、野球などの球技が多く、チームワークで、組織的で、戦術的でもある。ほとんどが英国発祥。七つの海を制した国は、言語と球技を広めたといえる。

最近のスポーツは、アメリカ発が多いようだが、それよりも、世界の若者たちが勝手に、いつの間にか国境を越えて、路上で広めた感がある。

先に、スポーツと帝国主義との関係を論じたが、各国の伝統文化とは無関係の、大地から湧き出たような、世界の路上から湧き出たようなスポーツにもエールを送りたい。今のところそれが、これまでのスポーツがもつ過剰なナショナリズムコマーシャリズムに縁遠いところにあるから。

 

スポーツと帝国主義

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WBCすなわち野球の世界戦に出てくる強国は、アメリカ、日本、台湾、韓国、キューバプエルトリコなど、思想的政治的にはどうあれ、アメリカ文化が浸透している国だ。

サッカーが強いのは、ヨーロッパと南米、特にスペイン語文化圏だ。

ラグビーが強いのは、発祥の地であるイギリス各州と、南半球の元英国植民地である。

つまりスポーツに、文化圏としての帝国主義が生き残っているのである。

日本発の柔道は国際化したが、盛んなのは、フランスやロシアや中央アジアなど。相撲も国際化しつつあり、モンゴルが圧倒的だが、東ヨーロッパも参加しつつある。これらは、上記の海洋帝国主義圏から離れた国である。

僕は帝国主義者ではないが、自国発のスポーツが世界に広がることを嬉しく思っている。日本人力士を応援するあまり、モンゴル人力士を敵役にしたり、柔道でメダルを独占するべきというような発言は慎むべきではないか。

文化の拡大には、それなりの寛容が必要だ。これは長期的な国家戦略としても、案外重要なことかもしれない。