都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

愛あればこそ

知床を旅して、海の向こうに国後島(クナシリ)を見たとき、北方領土返還を叫びたい気がした。

人間には、大地(領土)に対する愛がある。

国を愛し、大地(風土)を愛し、人(同朋)を愛するのは当然のことだ。

愛あればこそ戦いは生まれる。その葛藤の中で、いかに戦争を回避するのか。

鎮魂の日。

平和を叫ぶことも鎮魂だが、戦争について、現実的、論理的に考えることも鎮魂になるだろう。

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交戦しないということ

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子供のころ、憲法9条のことを知って「他国に侵略されたらどうするのか」という疑問をもった。大人たちは「今はそんな悪い国はないのだ」と答えた。僕は迂闊にもそれを信用した。

その後、憲法を支持する有識者たちも、テレビの討論などで同様の答えをしていた。僕はかなり長い間それを信用した。

今、この答えは通用するだろうか。

僕の知人は、子供のころ9条のことを知って、日本はどんな国にでも侵略され奴隷になる覚悟を決めたのだと解釈したという。そして自分もその覚悟で生きてきたという。僕はこの知人(社会的地位のある人物だが)の厳しい現実認識と論理性に敬意を払っている。

「支持率政治」の是非

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内閣改造によって安倍内閣の支持率が上がったようだ。首相の低姿勢と反省の弁も好印象かもしれない。

支持率の調査が、これだけ頻繁に行われ、また敏感に数字に反映するとなると、支持率が政治を動かすことになる。今回の反省と改造はまさにそのケースで、つまり「支持率政治」だ。

テレビの視聴率が、番組の質の高さとはかけ離れたものであることは、ほとんどの人が認めているが、コマーシャルが放送を支えているので、数字が猛威を振るう。

支持率と「政治の質」との関係にも似たところがある。

支持率政治は、短期的で、短絡的で、国民に優しいことだけをいう。支持率は選挙結果と並行的であり、それが民主主義というものだ、といわれればそれまでだが、釈然としない。短期的には支持率が低くても、長期的に国民の支持を得るタイプの民主主義はないものか。

視聴率に関わらず、質の高い番組をつくるテレビマンがいなくなるのは寂しい。

支持率に関わらず、質の高い政治を行う政治家がいなくなるのは恐ろしい。

河野太郎外務大臣

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内閣改造の目玉として、テレビは野田聖子にスポットを当てているが、注目されるのは河野太郎の外相起用である。

太郎の祖父河野一郎ソビエトとの関係を重視し、父親河野洋平は中国、韓国との関係を重視した。つまり首相は、野田聖子については人間的な懐の深さを、河野太郎については政策、特に外交に関する懐の深さを示したことになる。

また安倍首相の祖父が、日米安保を強引に推し進めた岸信介であったことを考えれば、同じ自民党ではあるが、戦後日本の立ち位置に関する正反対のDNAが、一つの政権に融合されるのだ。

呉越同舟か、同床異夢か。あるいは日本国の立ち位置が、ポリフォニック(重輳的)に展開されるのか。興味深い。

記憶と名前

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NHKの朝のドラマ「ひよっこ」で、沢村一樹が記憶喪失の父親を演じている。

子供のころ、記憶を喪失することは怖いなと思ったのだが、不思議だったのは、映画やドラマに登場する主人公が、自分の名前や家族や職業は覚えていないのに、話はできるのだ。つまり一般日常の言葉は記憶しているのである。インチキだと思ったが、だんだん、記憶喪失とはそういうものだということが分かってきた。

人間にとって自分の名前や家族や職業は重要ではないのだろうか。

そうではない。人間の記憶は「層」をなしていて、人、男、女などが深層にあり、怖い、優しい、大きい、小さい、などが中層にあり、個人名は表層にあるのだろう。また人、男、女などは先天的なものだが、名前、家族、友人などは変化することもあり、そういう記憶は失いやすいのだろう。また自己と社会の関係に関する記憶も失いやすい。

つまり人間の脳は、自分にとって重要かどうかよりも、動物としての進化発達の過程によって層を構成していることが感じられる。

自然に生きるということは、通常重要だと考えている、自己と社会との関係を捨てて生きることかもしれない。