都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

建築からの戦争論

建築からの戦争論を発表した。今日から三日間お盆の特集連載。若山
 今年も8月15日終戦の日が近づいてきました。戦後73年になろうとしていますが、世界情勢はテロの脅威、北朝鮮の動き、経済保護主義が生み出した対立構造など、また新たな緊張感に包まれています。日本では今後...
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能力の格差から努力の格差へ

スポーツで活躍している若者を見ると頼もしくなる。

スマホでゲームに夢中になっている若者を見ると情けなくなる。

わりと頼もしい方の学生たちと話していて気がついた。

若者たちも、ゲームにハマらないように努力しているのだ。そして今の若者たちは、努力する者としないものに分かれているという。

昔は、能力には向き不向きがあって差があったが、数学ができる子は数学、英語ができる子は英語、運動ができる子は運動、音楽ができる子は音楽、機転が利く子は機転、それぞれ努力していた。みんなが努力していてその努力にはあまり差がなかった。

今は、努力に差があるという。

能力の格差から、努力の格差へ。

これは案外怖いことではないか。

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何処へ・・・

 

キャラクターとその罪・忖度と諫言

ボクシング連盟の山根明氏を「唖然とする人物像」と書いた。「小悪ボス」とも書いた。

しかしテレビを見ていると、アメフトの内田監督や、レスリングの栄監督とは、少し違うかもしれない。

久しぶりに登場した「ヤーさんふうのキャラクター」で、『仁義なき戦い』か『アウトレイジ』でも見ているような面白さがある。テレビはその「ヤーキャラ」(ヤーさんふうキャラクターの略)を求めて群がる。森友学園の籠池氏と同様にキャラが立っているのだ。

司法的にいえば、キャラクター自身に罪はない。

時々、こういう人物が現れてある機関を牛耳るものでもある。

その原因は、本人のキャラクターとともに、周囲が腹を決めて物を言わないことにある。

葉隠』という書にあるように、主君に忠節ばかりではなく「諫言」もまた武士道であり、命を捨てる覚悟でやらなくてはならない・・・。「忖度」はどこの国にもあり、良い忖度と悪い忖度があるが、現在の日本は、事なかれ主義の悪しき「忖度」がはびこって、腹を決めた「諫言」が影を潜めていることが問題ではないか。

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もの言えば

 

ネット墓地とスマ墓

お盆の話題であるが、最近はインターネットで墓参りをしたり、スマホの画面に墓が写し出される、ネット墓地やスマ墓といったものが人気だそうだ。

しっくりこないのではという気もするが、実在しないということがむしろいいのかもしれない。

「墓」というものは、死者のメモリー(記録、記憶)が現実の空間として永続するという機能である。しかしこの現実空間の永続が何によって担保されるかというと案外難しい。歴史においては国家権力も転変する。むしろ宗教の方が持続性があるのかもしれないが、これも時代によって変化する。それならいっそバーチャルの方が気楽だし、これからはネットの中の方がリアルの空間より持続性があるかもしれない。

もともと石を建てて「家の墓」とするのは中国的で日本的ではないという考え方もある。本居宣長は、自分の墓には山桜を一本植えただけにせよ、と言い残した。

諸行無常ということか。

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向こうへ

 

お盆と終戦・御巣鷹山と「はるな」

8月は、戦争を想う、鎮魂の季節だ。

それにしても終戦記念日の8月15日が、死者の魂を迎える「お盆」という、古くからの日本文化(仏教からくる)と重なるのは不思議な一致だとかねがね思っていた。この時期には、意識として確かに、戦争犠牲者の霊が帰ってくるのだ。

そしてこの10日、防災ヘリコプターの「はるな」が群馬県の山中で姿を消した。群馬県の飛行機事故といえば、誰もがあの御巣鷹山日航ジャンボ機墜落を想い起こすだろうが、それが33年前の8月12日なのだ。山中に散らばるヘリの機体を見て、その記憶がよみがえった。

僕は、あまり神秘的な考えにおちいらない、どちらかといえば科学的合理的な方だが、死者の魂(霊)が呼んでいるのではないか、というような気がしたものだ。

この異常な暑さのせいかもしれない。

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霊場の夏

 

厳正と抜擢=公平倫理、その崩壊=存亡の危機

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考える人は孤独だ


東京医大の入試で、女子学生が一律に減点されていたというのは驚きであった。

そしてテレビによく出る女医が「医療の現実から見れば当たり前」と発言したようだ。女医が増え過ぎて男性の医者が減るのは医療の現場に好ましくないという、現実を知った発言として、そういう見方もあるのかと思わされた。

しかし問題なのは、これが贈収賄を含む「裏口入学」と並行して行われていたことである。入試の公平性という原則がまったく等閑視されたことである。

実は、入試と人事における「公平倫理」がこの国の根幹である。

敗戦によって、国家に対する忠誠、目上の者に対する尊敬、その他多くの倫理道徳が消失する中で、実力本位の公平倫理だけは何とか保たれ、復興と成長の原動力となってきた。

公平倫理は、破ることによって他人に直接的な害悪を及ぼす感覚が薄く、時に人情と衝突するので、これを守るには、それなりの個人的倫理観が必要なのだ。

入試においては、たとえ点数主義と言われてもそれを遵守する「厳正」が公平の原点である。最近の文科省は入試を多様化しろというが、結果として情実が入り込む契機を増やしている。また教員も多様化しろというが、実は質を落とすことにつながる。

逆に、さまざまな要素が絡む実社会の企業人事では、型どおりではない思い切った「抜擢」が必要だ。それには上司に、事なかれ主義とは異なる腹の据わった公平倫理が要求される。

厳正と抜擢という「公平倫理」の崩壊は、単なる悪ではなく、長期的にこの国の底力を損なう、いわば国家存亡の危機である。