都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

安室奈美恵の言葉の重み

f:id:wakashige:20170507202212j:plain引退を宣言した安室奈美恵のインタビュー番組があった。

何気なく見ていたのだが、引き込まれた。

彼女の語りにである。

内容がとてもしっかりしている。

言葉もよく選ばれている。

当然かもしれないが、声も表情もきれいだ。

敷かれたレールの上を走っていた・・・何をやっていいか分からなくなった・・・作曲をやってもみたけどダメだった・・・今は声が出なくなりつつある・・・など赤裸々に語っている。

そのころは仕事ばかりで、安室奈美恵と小室哲也の音楽に馴染む時間がなく、人生でスポッと欠落していたのだが、彼女は歌と踊りが抜群にうまいという印象であった。

今回は「言葉」によって、彼女の人間性に触れて感動したのだ。

しかもひどい人見知りで、インタビューは受けず、ステージでも語りは入れなかったのだという。だからこそ言葉に重みがあるのかもしれない。

本を書いてみたらどうだろうか。

 

 

稀勢の里・時代が生んだ横綱・時代が生んだ引退

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稀勢の里がついに引退した。

怪我をしてからはいいところがなかった。

ほとんどの相撲ファンが期待し、応援し、また同情した。

そんな力士はこれまでになかった。初代若乃花大鵬も大変な人気だったが、強いがゆえの人気で、同情されるということはなかった。北の湖などは強すぎて憎らしいといわれたほどだ。

横綱をモンゴル勢が独占する時代が続いて、日本人横綱誕生が全相撲ファンの悲願だった。そして横綱になった時点から一抹の危惧があった。つまり朝青龍白鵬日馬富士鶴竜というモンゴル人横綱が続いた中に、ただひとり誕生した日本人横綱ゆえのプレッシャーであり、それゆえの引退であった。

もちろんプレッシャーをはねのける心技体が無かったといわれればそれまでだ。

平成時代の相撲界はモンゴル時代であった。そういう時代が生んだ横綱であり引退であった。大相撲史上初めてのことだ。

勝負の世界は非情である。

非情だからいいのだろう。

 

クイーンのボヘミアンラプソディー

ボヘミアンラプソディーという映画を見た。ロックバンド、クイーンの話だ。

大型の画面で何とかサウンド。すごい音量である。

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何が見える


アクション映画などは音が大きすぎて辟易することが多いのだが、この映画は全編音楽だらけにもかかわらず、そういう気分にならなかった。彼らの音楽の質が高いからだろう。

ストーリーのテンポも良くて飽きない。

ボヘミアンともいうべき祖国喪失者、突然のごとく有名になり、エルビス・プレスリーザ・ビートルズマイケル・ジャクソンなどに匹敵するスーパースターとなる。そして彼らと同じように不幸な末路を辿った。

世界中に知れ渡ったスーパースターと、日本とせいぜい東アジアで知られるスターとでは、人生にまったく違うものが見えるのだろう。パフォーマンスのレベルが違うというより、存在の意味が違うのだ。そして全世界の人間の期待に応えるパフォーマンスを演じようとするため、その精神に許容量を超える負担がかかり、ある種、神がかった状態になって、破綻する。

人間の自我の宿命のようなものだろう。

どんな音楽でもコンサートとなると、その時間、拘束されるような気がしてあまり行かないのだが、いくつかあったピアニストの映画、「セッション」、「ラ・ラ・ランド」など、音楽映画は楽しく見れる。