都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

壁の文化と屋根の文化

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先に「積み上げる文化と組み立てる文化」について書いた。

建築からの文化論としては、分かりやすいキャッチフレーズであったが、「建築へ向かう旅」という本の中で、もう一つ踏み込んでみた。

積み上げる建築は「壁」の建築であり、組み立てる建築は「屋根」の建築である。

壁とは、石や煉瓦で空間を隔て人を隔てるものだ。個人の空間を隔てたものが個室であり、家族の空間を隔てたものがサロン(リビング)であり、市民の空間を隔てたものが広場であり、信仰の空間を隔てたものが教会である。ヨーロッパの都市は、そういった空間の集合なのだ。

屋根とは、木を組み立て人をまとめて覆いをかけるものだ。そこに「家」ができる。障子や襖という紙で仕切られた家の中にはプライバシーが存在しない。そこで個を立てるには、家を出る、すなわち出家する必要がある。

実際ヨーロッパの都市は、建築が隣の建築と密着して一つ一つの家という感覚ではない。イスラム圏はもっとそうで、インドも中国もその傾向がある。同じ建築の内部でも部屋と部屋は煉瓦の壁でしっかりと仕切られているから、そこに完全な個人の空間が成立する。

日本では東京のような大都市でさえ、家のまわりに隙間を空けて、塀で囲って土地を取ろうとする。家の集合は村であり、都市もまた大きな村に過ぎないのだ。個人の論理も、都市の論理も、自治の論理も希薄である。

社会構成の上にも、この「個人の論理」と「家の論理」が反映されている。ヨーロッパの社会は「個人」の集合であるが、日本社会は「家」の集合であり、個人はどの家に所属しているかで認識される。封建時代の「藩」も、近代の「国家」も、現代の「企業」や「省庁」も、その「家」の一形態ではないか。

「積み上げ・組み立て」は、文化の時間的歴史的な性質であるが、この「壁・隔て・都市」と「屋根・覆い・家」は、建築様式と社会構成を結びつける論理として説得力があったようだ。

 

本はページをめくるだけでいい

難しい本、面白くない本、やたらに厚い本など、途中でストップしてしまうことがある。

そのままにしておくと、本に負けたような気になるし、次の本に進みにくい。そういう本は、とにかくページをめくってしまうといい。内容が頭に入らなくても、目が何らかの情報をキャッチして、その本に対する構えのようなものが残る。

読書ではなく観書だが、無駄にはならない。

 

本は後ろから読め

時々、本を後ろから読む。

やってみた人間でないと分からないが、それも一つの読書なのだ。

パラパラと後ろからページをめくる。精読はできないから、スピードが早い。しかも不思議にその本に書いてあることの構造が理解できる。そして重要なところだけ、しっかり読む。評論だけではなく、小説でもできないわけではない。

活字は一次元的に並んでいるが、ページをめくるのは自由だから、斜め読みでも、後ろ読みでも、跳ばし読みでも、いろんな読み方をしていい。そこがラジオやテレビと違うところなのだ。

後ろから読むのは、特に書店で立ち読みするときに有効だ。

 

積み上げる文化・組み立てる文化

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四年生のときに大学は紛争となり、バリケード封鎖の中の卒業。そのまま大学院に進んだのだが、設計と研究とどちらの道に進むべきかで大いに迷い、迷いながら哲学や評論を読んだ。すでに両親は亡く姉たちは嫁に行って天涯孤独。

紛争のあとの虚脱感もあったのだろう。無計画で無鉄砲な旅に出た。

四ヶ月にわたり、ヨーロッパ各地をヒッチハイクでまわったのだ。アウトバーンの発達しているドイツを中心に、スイス、オーストリアデンマーク、スエーデン、フィンランド、オランダ、ベルギー、フランスとまわり、最後の一ヶ月はイギリスのブライトンという街で英語の勉強をした。主としてユースホステルを利用したが、ドライバーの家に泊めてもらったこともあり、駅舎で夜を明かしたこともある。パトカーに捕まったり、ヤクザに追いかけられたり、ホモに狙われたりしたこともある。皿洗いこそしなかったが、金もなく、予定もない、放浪の旅。ろくな食事を取らなかったので、体重は落ち、ベルトがゆるくなってくる。

腹を空かせた犬のように、街の路地をウロウロと彷徨いながら、石の重みを感じていた。ともすれば押しつぶされそうになる建築の重みであり、時間の重みでもある。角が擦れて丸くなった石畳の上を通り過ぎて行った人の量だけの時間の堆積である。

そして考えた。ここでは、その都市と建築が石や煉瓦を積み上げてつくるように、その文化もまた過去から現在へと積み上げられているのではないか。

われわれが中学で学ぶ、ユークリッドピタゴラスアルキメデスといった科学者は古代ギリシャの人であり、コペルニクスガリレイニュートンの発見は彼らの思考の上に乗っている。デカルトやカントやヘーゲルの哲学も、ソクラテスプラトンアリストテレスの思考の上に乗っている。考えてみれば、マルクス主義者の好きな弁証法というものも、積み上げの論理ではないか。

ヨーロッパでは、都市や建築が積み上げられているように、その文化も積み上げられているのだ。

それに対して日本文化は、その建築が木造の組み立て式であるように、組み立て組み替えを繰り返しているのではないか。

過去には中国から来たものを日本流に組み立て組み替え、近年には欧米から来たものを日本流に組み立て組み替えてきた。政治学者の丸山真男が「日本には思想の葛藤と蓄積がなく、様々な外来思想が同居している」(『日本の思想』)としたように、西洋の思想が長期的、論理的、構築的であるのに対して、日本の思想は短期的、情緒的、雑居的なのだ。ヨーロッパの文化は「積み上げる文化」であり、日本の文化は「組み立てる文化」である。

日本に帰って、設計事務所に勤めながら、この体験と思考を『建築へ向かう旅』(冬樹社)という著書として出版した。「積み上げる文化・組み立てる文化」というサブタイトルをつける。つまり青春の放浪記であると同時に、建築論でもあり文化論でもあった。

この本は、きわめて好評で、ほとんどの新聞と雑誌に書評が掲載され、僕はものを書く人間になった。

 

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可愛いAI

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先に、AIに関する論評が、打ち壊し運動とアシモフの時代の域を出ていないと書いた。

乱数発生と自己学習が生み出す、これまでのプログラムとの違いの本質に触れていないからだ。

乱数発生は、プログラムに偶然を取り込むことであり、これは創造力と想像力につながる。自己学習は、それぞれの体験によってプログラムが変化することで、生物個体の成長と同様である。どちらもきわめて生物的であり、人間にプログラムされたままではないということだ。コンピューターは乱数発生と自己学習によって、人間の手を離れようとしているのである。

そしてそのことによって、囲碁のソフトは一段と強くなり、しかも人間と同じようなミスを犯すようになった。

つまり「強さ」とは、決して理詰めで物事を解決することではなく、偶然に身を委ね、そこから新しい状況と戦略を生み出していく力であり、経験によってそれまでの自分を否定していく力であり、時にはミスを犯すことも許容する覚悟なのだ。

人間も「絶対にミスを犯さないように」と考えた途端にプレッシャーを感じて硬くなり失敗することは、スポーツを見ているとよく分かる。

 

強くなった囲碁ソフトと対戦していると、相手が可愛くなる。

物足りないのは、感情の表現がないことだ。

負けたときには「参りました、くやしい、ワー残念、このやろう」とか

勝ったときには「ワー勝った、どうだ、見たことか、これが実力じゃ」とか

そういう発言をするようになったら、AKBよりAIの方がずっとカワイイ。

 

政治的性格とは

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トランプ現象から、「政治的性格のA面とB面」を語ってきた。

この政治的性格という言葉は、デビッド・リースマンが「孤独な群衆」において使った「社会的性格」に習ったものだ。

リースマンは、経済的テイクオフ(離陸すなわち急速な発展)以前の社会では、人々の社会的性格が「伝統指向」すなわち伝統の規範に従う傾向があり、テイクオフ中の社会では「内部指向」すなわち個人に内在する価値観に従う傾向があり、テイクオフ以後の社会では「他人指向」すなわち他人の行動に追従する傾向があると論じた。学生時代に読んで、なるほどと思わされた。

僕が論じてきた「大衆発信社会」というのは、この他人指向社会の延長ととらえられる。いわば現代は「過剰流動的相互発信型他人指向社会」である。さすがのリースマンも、現在のようなインターネット社会の到来は思いもよらなかったが、かなり近い予測をしていたということになる。

政治的性格は社会的性格より、絞り込んだ概念である。

民主的であろうとなかろうと、先進的であろうとなかろうと、ある社会の構成員が、政治的な選択をするときの性格を考えようということで、現在の先進国に起きている、一見、右傾反動に見える現象を、とりあえず価値観評価を加えずに、人間社会の属性としてとらえようと考えているのだ。

 

AI(人工知能)の論評

AI(人工知能)について、様々に論じられているが、もう一つピンとこない。

AIには、人間のような想像力も創造力もない、所詮人間がプログラムしたものだから人間を超えられない、といった意見によって、安心しようとする内容がほとんどだ。

かつて、機械が労働者の仕事を奪うことを恐れ「打ち壊し運動(イギリスのラダイト)」が起き、ロボットが人間に歯向かうことを恐れ「アシモフの三原則(人間に危害を加えない、人間の命令に服する、自己を破壊しない)」が唱えられた時代と同じ心配と論評が繰り返されているように思う。

僕が、囲碁のソフト(乱数発生と自己学習を取り入れた、いわゆるAIに近いもの)と対戦して感じたことは、まったく同じ状況でも次に同じ手を打つとは限らないことと、肝心なところで人間に似たミスを犯すことである。そしてこのことによって、以前のソフトより格段に強くなったという事実である。つまり確率と学習を取り入れることによって、極めて人間的になり、これまでのプログラム概念とは異なったものとなっていることだが、その違いの本質が論じられていない。

つまり、AIは、必ずしも論理的でないし、想像力も創造力も感じられるのだ。むしろAIを論じる人間の方が進歩していないのではないか。これなら、AIの論評もAIがした方が的確であるような気がする。

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AIには感情がない、とも言われる。確かにそうだ。

しかし本当に感情表現をする必要があり、その技術が進めば、どうだろうか。手塚治虫が「鉄腕アトム」で描いたような、スピルバーグが映画「A.I.」で描いたような、感情を持ちそれを表現するAIも現れるのではないか。