富岡八幡宮の事件に絡んで、日本の宗教と政治の文化的な根っこについて書いた。
祟りがないことを祈る。はて、何に祈ろうか。
先に「希望と戦略」について書いた。
少しでも希望が見えれば、それなりに戦略を考えることもできる。
だが、まったく見えないときはどうだろうか。
そこで「希望が見えるまでの戦略」を考えた。
1・とにかく耐えるー崩壊を防ぐために努力する
2・ほったらかして寝るー体力と気力を養う
3・じっと待つー時勢が変わるのを待つ
4・別のことをするーあんがい有効だ
5・悪あがきをするー見栄えが悪い
戦略とも言えないが、希望が見えないのだから仕方がない。
オススメは4だ。どうしようもなければ5だが、これはそれぞれの美意識によるだろう。
アウシュビッツの収容所体験を描いたフランクルの『夜と霧』には、人間はどんな状況においても、希望、道徳、尊厳といったものを完全に失うわけではない、ということが書かれているように思う。
わずかでも希望があれば、それに近づくための方法を考える。
つまりどんな状況下でも戦略というものがあるのだろう。
計画といってもいいが、戦略の方がドラマティックだ。
戦術は、局所的な戦いの駆け引きと技術だが、戦略は、大局的な判断で、局所的には負けることも選択肢の一つであり、政治、経済、文化も視野に入れるべきである。
これがなかなか難しい。
一番まずいのは、やみくもに闘うことだ。
次は、戦術的に闘うことだ。
一番いいのは、戦略的に闘うことだ。
しかしもっも難しいのは、希望を失わないことだ。
海に投げ出されたら泳ぎ出さなくてはならない。
そうしないと沈んでしまう。
しかしやみくもに泳ぐのは危険だ。
体力の温存をはかりながら慎重に泳ぐべきだ。
周囲の状況をよく見て、太陽、月、星、島影、船影、浮遊物など。
そしてよく考えて、しかるべき方向に、しかるべき速度で、泳ぐ方がいい。
人生も同じだ。
この世に投げ出されたら生きなくてはならない。
どんな状況においても希望をもって戦略的に生きた方がいい。
その共通点から、日本社会の「公の論理」と「家の論理」の葛藤を論じた。
https://thepage.jp/detail/20171204-00000003-wordleaf
戦後日本は、絶対平和主義であり、暴力と体罰は絶対否定である。
しかし暴力とは何だろうか。
筆者は子供のころ、とっくみあいの喧嘩が日常茶飯事だった。中学のとき、担任の先生から体が吹っ飛ぶほど強い平手打ちを食らったことがあるが、今その先生をもっとも尊敬している。また大学では、かなり激しい運動部に属していて、試合や練習に手を抜くと体罰として基礎体力運動が追加されるのだが、殴られる方がはるかに楽だと思っていた。しかしその先輩、同輩、後輩の絆は現在でも強い。肉体的にはもっとも苦しいが、精神的にはもっとも楽しい、人生における貴重な青春のひとときだった。
もちろん暴力は許されるべきではない。
しかし荒れた学園での教育現場、若い運動エネルギーの発露において、絶対平和、絶対非暴力では抑えられない現実がある。つまり暴力にも、その性質と程度によっては是認せざるをえないケースがあるのだ。
もちろん暴力は許されるべきではない。
一方で、イジメ、自殺、過労死などの報道、昨今の某女性元国会議員、地方議員などの実態を知ると、この平和であるはずの社会に、言葉の暴力、精神的な暴力が蔓延していることを感じざるをえない。何の得にもならない嫉妬からくる犯罪も多い。心ないマスコミの報道が人間の精神と名誉を損なう場合も少なくない。なぜこんなイヤな国になってしまったのか。
もちろん暴力は許されるべきではない。
しかしこれを機会に、肉体的のみならず、精神的なものも含めて、「暴力とは何か」ということを、改めて考え直してみることは許されるのではないか。
努力すれば必ず報われるとはいわず、努力しても報われないことが多いと教えてきた。
人はみな同じとはいわず、環境も才能も大きく違い、それを乗り越えるのは困難だと教えてきた。
今の日本の常識には合わない教育者だった。
しかしみんなよく耳を傾けてくれた。
タテマエでなくホンネをいうと思ったのかもしれない。
もっとホンネをいえば、
環境や才能は喜びにつながらないが、努力することはそれだけで喜びだということだ。