都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

小池石原劇場

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小池百合子石原慎太郎。「竜虎相搏つ」という感じになって来た。

政治家同士の対決と言えば、これまで吉田茂鳩山一郎田中角栄福田赳夫安倍晋太郎竹下登など、自民党の領袖たち、いわば政治のプロどうしの対決であり、永田町の数の論理で決着がついて来た。政治は力、力は数、数は金、というやつだ。

そこへ殴り込みをかけたのが石原慎太郎だ。大変な票を集め、一気に人気政治家となった。そのあと雨後の筍のごとく、タレント議員が輩出した。彼らは既成の永田町の論理に対して、一般国民の人気の論理で戦った。善戦した者もいたが、苦戦した者もいた。そういった中で、石原と小池は、永田町の論理をある程度身につけて、それなりの実力を蓄えた。

とはいえ、今回の激突は、人気を背景にしている。「昔の人気・vs・今の人気」ということか。となれば世代の対決にもなる。国民にとって重要な、安全保障や経済政策や行財政改革やといったテーマからは離れた、かなり過去のゴシップ的な関心で、一種のポピュリズムだろうか。まさに劇場型の政治現象だ。実際に彼らは、映画やテレビの世界で生きて来たから劇場には慣れている。

もちろん今の人気は昔の人気より強い。しかし昔の人気は長期にわたり、文学や弟の存在などの背景もある。文化論的にも興味深い。

東芝・日本技術帝国の崩壊

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数寄屋橋ソニービルが解体され、しばらくは公園になるという。

向かいには昨年オープンした東急プラザ。阪急が入っていたが、もとは東芝の松田ビルであった。

東芝は明治初期以来の、重電を中心とする大企業であり、ソニーは戦後急成長した、主としてオーディオ・ヴィジュアルの家電企業であり、どちらも日本のものづくり技術の象徴であった。そしてどちらも経営悪化。ソニーはまだ可能性があるが、東芝はどうだろう。数寄屋橋から、二つのビルが消え去るのは象徴的だ。

70年代、80年代、トヨタ、ホンダ、ソニーパナソニックニコン、キャノン、セイコー、シャープ、カシオ、富士フィルム東芝、日立、三菱、その他・・・。日本のものづくり技術は世界に群を抜いていた。僕はこれを「日本技術圧勝時代」と書いたことがある。同世代の技術屋は、その栄光のために汗水垂らして働き、今はほぼリタイヤしている。

かつて、日本の軍人は大日本帝国の崩壊を目の当たりにして生きざるを得なかったが、今、日本の技術屋は日本技術帝国の崩壊を目の当たりにして生きざるを得ない。

もちろん責任者の罪は重い。

 

もう一つの事実のもう一つの事実

「事実は一つであってほしい」と、テレビのコメンテイターが強く言った。

そのとおりだ。僕も「もう一つの事実」という言葉の流行に嫌な印象を受ける。

アメリカで、トランプ大統領の報道官が、就任式に人が少なかったのを史上最大の人数として「alternative facts」と説明したことから、ジョージ・オーウェルの「1984」まで持ち出されている。好きな作家の一人だが、彼は、社会主義の理想が思想的ファシズムを形成することを先見的に風刺したのであり、トランプの方向性とは逆である。日本では言葉だけが一人歩きして「現代社会では嘘の報道もまかり通る」というような意味になってしまった。

しかしもともとこの言葉は悪い意味ばかりではないはずだ。alternativeとは「代替えの、他の」などの意味で、むしろ哲学的には正しい態度とも言える。

事実あるいは真実を、確定し記録し伝えることは難しい。どんなに客観的に記そうと努力しても、必ずその時代のその体制のその記述者の価値観が忍び込む。科学的真理にさえ「再現可能な実証」という、言わば経験的な方法論が重視される。つまり科学とは、知の絶対性を否定する認識方法なのだ。

世の中の事実が、権力によって確定され記述され報道されるなら、その絶対性を疑い「もう一つの事実」を考えてみることは必要なことである。

今ではすっかり悪い意味になってしまった。

「もう一つの事実のもう一つの事実」ということだろうか。

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首脳の親密(晋三・ドナルド)=諸刃の剣

国家の首脳同士が良好な関係というのは、双方の国民にとって、きわめていいことである。

しかしあまりにもベタベタの親密というのはどうだろう。

しかもその相手が、金ピカ趣味の、世界のメディアが批判する政治家となると。

軍事同盟は平和にとって諸刃の剣、と前に書いた。紛争の抑止にもなり、また引き金ともなる。首脳の親密も同じ諸刃の剣かもしれない。かつて、ヒトラースターリンと親密の情を示し、国民に大変な苦難を強いた海外の政治家も多かった。日本の政治家にあまりそのイメージがないのは、確固たる個人ではなく、集団の意を体して、個人としては曖昧な政治家像であったからだろう。

日本ではその曖昧さを「政治的度量」と受け止める、とも書いたが、今回はそれがために、逆に日本の政治家が世界の中で際立っているのだ。ともかくも、曖昧さが批判されるばかりであった時代とは異なってきた。

それにしても、テレビに映る安倍首相の外交現場の姿は、これまでの日本の政治家と比べて悪くない。卑屈にも尊大にも見えない。アメリカ両院議会における演説も、真珠湾訪問時における演説も、なかなか格調高かった。今回、ベタベタしていたのはむしろ大統領の方だ。

国民は多少の不安を抱えながらも、この姿に期待している。それが支持率に現れている。

最期の出会い

ある総合病院でソファに座って診断をまっているとき、車椅子に乗った相当に高齢のご婦人と目があった。向こうがニコッとしたので、こちらもニコッとした。息子さんらしい人が車椅子を押していたが、その人もすでに高齢者と言っていい。

 しばらくしてその人の方を向くと、ガクッと身体の力が抜けたように首が後ろに折れていた。息子さんが声をかけるが起きない。看護師さんがやってくる。息子さんが「よく昼寝するのですが」と言いながら、二人で声をかけたり、手をさすったりする。別の看護師さんが脈拍を図る器械をもってくる。医者がくる。そして車椅子を診察室の中に入れたので、この一団は僕の視界から消えた。

やがて息子さんの声が聞こえた。誰かに電話しているらしい。どうやらその老婦人はお亡くなりになったようだ。

だとすれば、彼女が人生の最期に出会った人間は僕だったということになる。

若いころは美人だったかなと思った。

そして、なぜそんなことを考えるのかとも思った。

 

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「家」と「やど」

東京の設計事務所から名古屋の大学に赴任して、何か新しいタイプの研究をやろうと、「文学の中の建築」というテーマに取り組み、大上段に『万葉集』から取りかかったことは前にも書いた。

万葉4500首あまりに、もっとも多く登場する建築用語は「家」であり、次が「やど」であった。「やど」といっても旅の宿を意味するのではなく、これも住むところを表している。つまり「家」と「やど」は同義語なのだ。

しかしよく調べてみると、その文脈が異なっている。「家」の歌は人を詠み、「やど」の歌は草花を詠む。例をあげよう。

「人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり」

「わがやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも」

前者は大伴旅人、後者はその子、大伴家持の歌である。

ところが平安時代に成立した『古今和歌集』になると、住まいを表す言葉はすべて「やど」となり、「家」という言葉がまったく使われない。これはどうしたことか。

僕はこう考えた。和歌(万葉は和歌ではない)というものは、漢詩に対して定立された日本文化の正統であり、中国から来た文字によって成立した律令国家体制の根幹をなす「家」という社会的な概念を拒否したからではないか。つまり日本人にとって、同じ住まいであっても、「家」は社会制度の中に位置づけられた空間であり、「やど」はその制度から逸脱する風流の空間なのだ。

日本文化はこの「制度の空間」である「家」と、「逸脱の空間」である「やど」の対立構造の上にとらえられるのではないか。そして現実の建築空間と、文学の中のすなわち虚構の空間は、あざなえる縄のごとく相互に影響しあって、文化空間の歴史を構成しているのではないか。その視点から、この国の「文学・建築・社会」の関係の変遷を論じたのが『「家」と「やど」』(朝日新聞社)という著書である。

 

トランプの振子

トランプ現象と政治的性格について論じてきた。

 端的に言えば、人間の政治的性格を「A面=普遍性=都市力」と「B面=固有性=風土力」に分け、トランプ現象(トランプ個人の評価とは切り離して)をB面と位置づけた。

世界の政治力学がB面に振れているが、さて、この振子はどこまで遡ると見るべきか。

一つ目は、ベルリンの壁崩壊以後のグローバリズムである。

社会主義圏の崩壊により、世界資本主義とアメリカン・スタンダードのグローバリズムが進行しEUが形成されたが、この流れが逆に振れている。

二つ目は、第二次大戦後の国際主義である。

ドイツやイタリアや日本の民族主義ファシズムが敗退し、アメリカ主導による国際的協調が進んだが、この流れが逆に振れている。

三つ目は、17、8世紀ヨーロッパの啓蒙主義である。

ヨーロッパにおいて、科学革命と軌を一にした進歩主義と知識主義、そして教育によって国家を近代化する道が拓かれたが、これが逆に振れている。

三つとも、それなりに理屈が合うような気がする。

そしてそれは、僕がこれまでの著書で書いてきた「都市化の波=小波・中波・大波」という概念と一致する。

トランプの振子という表現が適切かどうか。まだよく分からない。