都市力と風土力

建築からの文化論を主に、時事評論を加える。

SMAPの文化論

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SMAPの活動から、日本文化の30年を考察しました。

https://thepage.jp/detail/20170622-00000017-wordleaf

 

前提となる理論は下記

「少し前、映画監督の篠田正浩氏との共著で『アイドルはどこから』という本を出した。ジャニーズ事務所や、AKBや、全国各地のゆるキャラや、マンガ、アニメ、ゲームなどのキャラクターといった、現代アイドルから日本文化の淵源に遡ろうとするもので、結果、われわれは仏教天皇に突き当たった。

日本のお寺は、どこへ行っても「御本尊」という仏像を拝まされる。

そもそも仏寺における本堂とか金堂とかいうものは仏像の囲いであって、人間を容れる建築ではない。それがキリスト教の聖堂やイスラム教のモスクとの違いである。またインドや東南アジアは、彫刻を施した建築(塔)そのものを拝む傾向にあり、仏像はあっても御本尊という感覚ではない。

日本仏教は一大偶像崇拝教なのだ。その偶像の制作に魂を入れることが、現代のものづくりもつながっている。

また歴代天皇も、藤原時代にはまだ年若い子供が擁立され、摂政、関白、上皇などが実権を握った。そして世界でも例を見ない長期にわたって、日本国の政治と文化の象徴偶像でありつづけた。

イスラム教は厳しく偶像崇拝を禁じているし、ユダヤ教も、キリスト教も、基本的には偶像崇拝を禁じている。大陸の文化は、偶像を廃し、理と知によって教義を拡大するという、一種の精神革命プロセスを経験しているのだ。

しかしこの島国の文化においては、昔も今も「アイドル=偶像」が共同幻想における象徴的な具体像として強い力を維持してきた。最近の世界的ベストセラー『サピエンス全史』でも、人間の社会にはたらく「想像秩序」の力が強調されている」

 

小林麻央・人類史上初めての悲しみ

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小林麻央さんが亡くなられた。

多くの日本人がその悲しみを共有した。

有名人の死は多くの共感を呼ぶ。しかし今回は、これまでのそれとはだいぶ趣が違った。病名を公開して以来、彼女の病状とその生活の様子が、インターネット上で、彼女自身とその夫のブログをつうじて、逐一報告され、その健気に生きる姿勢が幅広い感動を呼んでいたからだ。

日本人はしばらくの間「疑似家族」のような状態になっていた。

批判もあるようだが、それは大きな共感の裏返しのようなものだろう。英国BBCから「心を動かした100人の女性」に選ばれてもいる。

いずれにしろ、これまでの人間の歴史にはなかったことで、それが歌舞伎という、きわめて伝統的な文化の中の家族によって行われたことも興味深い。

 

SMAPの時代

美空ひばりにはひばりの時代があった。

焼跡から立ち上がろうとしていた。

慎太郎と裕次郎には、石原兄弟の時代があった。

何かに挑戦しようとしていた。

フォーク・グループにはフォークの時代があった。

成長の矛盾を叫ぼうとしていた。

SMAPにはSMAPの時代があったのだろう。

夢を取り戻そうとしていたのかもしれない。

警察の執念と監視社会

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昭和45年における渋谷暴動事件の容疑者が逮捕された。

警察の執念を感じる。

デモはマス(人間集団)とマスの激突であり、混乱の極致である。その中から容疑者を特定し、46年間にわたって追い続けるのは並大抵のことではない。大学にまで行かせてもらっている連中の暴力行為を止める任務を帯びた仲間が殺されるという怨みもあるのだろう。

日本の警察はあなどれない。

味方にすれば頼もしく、敵に回せば、恐ろしい、

「家社会」としての日本は、もともと周囲の人々の監視が厳しく、犯罪者の検挙率も高いのだが、そこに今話題の「テロ等準備罪」が成立すればどうなるのか。

テロの本当の恐ろしさは、それによって監視社会化することであるのかもしれない。

民主主義は残酷

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築地市場における小池知事の説明に対して、業者の方から「行くか行かないかを自分たちに決めさせるのは酷だ。知事が決めてくれれば、自分たちは従うほかないのだ」という意見が出た。

そのとおりだと思った。

前に、沖縄の普天間移転に関して、農家のおばちゃんが「村が賛成と反対と二つに割れているのが辛い。どちらかに決めてほしい」と切に訴えていた。

民主主義とは、ある意味残酷な制度である。

重要な案件に決断を下すのは、社会的立場にある者の使命である。

戦後日本社会は、賛成派のいうことも聞き、反対派のいうことも聞き、その中間の結論を出すというようなことをやり続けて来た。世の中には、特に安全保障など、そうは行かない二者択一も多いのだ。社会的地位にある者が、その責任を回避するのは「卑怯」というものである。

リーダーは良い人であることも大事だが、決断できる人であることが重要だ。良い人であることと決断することとの葛藤に苦しまなくてはならない。その「苦悩」は「孤独」でなくてはならない。仲間たちと酒を酌み交わしながらワイワイやって決めるていのものではない。

チェスと囲碁と碁会所と民族

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バークレイの東ヨーロッパから来た研究者たちは、チェスのクラブをつくっていた。

僕も仲間に入れてもらったが、若いころ将棋をやっていたので、すぐ強くなった。しかしこのころは囲碁が主な趣味で、いつも本を読んだり、ネットで対戦したりしていたので、彼らも興味を抱いて、教えてくれという。しかたなく、安い碁盤と碁石を手にいれて、教えることにした。

コンピューターの研究者は囲碁に興味をもつ人が多い。ロシアを始め東ヨーロッパはチェスが盛んだが、これからは囲碁が盛んになるような気がする。僕も一役買ったのだ。

バークレイの街にも碁会所はあって、よくかよった。ユダヤ人が運営していて、常連客もユダヤ人が多かった。

バークレイのあと、コロンビア大学に行ったので、ニューヨークの碁会所にもかよったが、こちらもユダヤ人が多く、あるニューヨーク大学の教授は囲碁のソフトを開発中だという。アメリカの囲碁ファンはユダヤ人が多い。日本の岩本プロが私財を投じてつくったところで、一時は韓国の人も多かったが、やがて韓国人がつくったところができて、そちらに移ったという。

それぞれの国と民族の事情が碁会所にも反映している。

アメリカの知的ふところ

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カリフォルニア大学バークレイ校の客員研究員だった頃、インタナショナルハウス(ロックフェラーが創設した留学生用ドミトリー ニューヨークにもある 通称アイハウス)に入っていた。食事もついているから一人暮らしにはとても便利だ。

ちょうどベルリンの壁が崩壊して、留学生ばかりでなく、東ヨーロッパから多くの研究者が流れ込んでいたので、僕は年齢の近い彼らとつきあっていた。ロシア、ポーランドラトビアクロアチアブルガリアといったところ。多くはコンピューターサイエンスを専攻していて、同じシリコンバレーでも、隣のスタンフォードはすぐに役立つ研究を、バークレイはすぐには役立たない基礎的な研究をという感覚だった。

天才的な研究者もいて「あいつは英語は分かるんだが、今ひとつピンとこない。少しおかしいんじゃないか」というと「いや、あいつは天才だ。教室では教授も一目置いている」という答えが返ってくるような連中。単純にいえば「変人」である。

就職しようと思えばすぐにできるのだが、奨学金を申請すればたいがい当たるので、それで食っている。「この寮にいる方が気楽なのさ」という。

研究者は知的な興味だけで生きているし、アメリカ社会にはそれを許すベースがある。

いろいろ問題のある国だが、知的なもの、変わったもの、創造的なものに対する懐が深いことを感じた。